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zoom RSS 上古史(縄文人+越人が倭人の母体。その後、越系タミル人+イスラエル十部族渡来。「ウガヤ朝」伝承考)

<<   作成日時 : 2018/03/10 21:14   >>

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【ウガヤ朝伝承】
様々な古史古伝には、神武天皇の前に、約50〜70代続いたウガヤフキアエズが統治する王朝(以下「ウガヤ朝」)があったという伝承が書かれているそうです。

最後の第72代ウガヤフキアエズと神武天皇は親子関係にあるとしている点、妙ちくりんな伝承です。

ただ、古史古伝は殆どがトンデモ説ですが、ゼロからの創作ではなく何らかの真実は含まれているように感じます。

後述するように、歴史学者が真実からかけ離れたところを研究し、学説に説得力も魅力もないため(注)、トンデモ説が出てくる隙があるです。

(注)学説や定説は疑って然るべきです。例えば、弥生時代は紀元前300年頃〜というのは嘘だと証明されています。弥生人が半島人(コリアン)というのも嘘です。弥生時代に縄文人が滅んだも嘘ですし、縄文時代に農耕はなかったというのも嘘です。真実の目から見れば、これら学説や定説はトンデモ説の一種に過ぎません。

ただ、トンデモ説も、真実2割、嘘8割といったところでしょうか。「定説を疑うヒント」くらいに捉えるとちょうどいいのでは、と思います。

ちなみに、「ウガヤ朝」伝承の原版は、鎌倉時代の豊後(大分県)で成立したとされる「ウエツフミ」という古史古伝だと思われますが、この「ウエツフミ」は、サンカ伝承とも共通点が多く見られるとの説があります(田中勝也氏「サンカ研究」)。

サンカ伝承は、古事記や日本書紀との整合性が高く、古代からのタイムカプセルの側面はあるでしょう。

ということは、「ウガヤ朝」伝承には、真実も一部含まれつつも、何らかの理由で古事記をボツになった伝承が含まれている可能性はあります(それは最後の方で述べるように、天津神か国津神かという点ではないかと思います。)。

(注)近代に至るまで、「古代」を生き続けたサンカとは、古代から中世への社会激変で、表社会では収入を得られにくくなった日本人ではないかと思われます。中世には、皇室や寺社の収入が激減したため、一部の職業には甚大な影響があったはずです。墓守や神社・芸能関係など、霊的なことに関わる職業です。


ちなみに、古事記、日本書紀では、神武天皇の父君にウガヤフキアエズ尊(一代限り)の名が見え、「ウガヤ」の語源について、記紀では、母君が出産するときに、鵜の羽で屋根を葺き終える前に産まれたから「ウガヤ フキアエズ」と名付けたという伝承を載せています。

(注)この正統伝承と、この記事で展開する「ウガヤ朝」の関係は、私の中では未整理であることをまずお断りしておきます。


【半島南部は、古墳時代まで倭人の地】
ここでは、古史古伝の「ウガヤ」の「カヤ」は、コリア半島南部の洛東江下流域(極東アジアの豊かな産鉄地)の小国名で使われる「伽耶」であろうと考えてみたいと思います。

私は、「ウガヤ」がコリア系国家だと言いたいのではありません。結論から言えば、「ウガヤ」は国東半島にあった「倭人国家」だと考えます(「カヤ」は失われた倭語だろうと思います。)。

古史古伝関係のトンデモ解説本には、現代の国境を前提にした浅い本が多くあります(それだけで著者の知能レベルが分かるというものです。)。

例えば、古事記に登場する天日槍(アメノヒボコ)命という人物は渡来コリアンと解説するデタラメな本もあります。
天日槍命は名前も完全な日本語で、製鉄技術を持つ半島倭人です。

コリアンに媚びて「半島に倭人がいなかった」という前提から入るから真実が見えないのです。「半島は倭人だらけだった」を前提で考えないと古代の真実には決して迫れません。

天日槍命は倭人だったから、日本列島の各地を自由に移住できたのでしょう。大和朝廷は、(秦氏を除く)渡来人に自由な移住は認めませんでした。

話を戻します。

「伽耶(広くは半島南部)と九州北部」は、日本の上古史の鍵であると思いますので、大きく脱線して、少し検討してみたいと思います。


半島の「伽耶(加羅とも言う)」地域は、縄文時代は縄文人、弥生時代からはずっと倭人が住んでいました。つまり、日本列島の延長と捉えるべき地域でした。

ざっとこの伽耶地域の上古を俯瞰したいと思います。

●縄文中期より前は遺跡はなく、無人の地だと考えられます。
●縄文中期頃から縄文土器が出土します。日本列島の縄文土器はその一万年前から存在していますから、日本列島から縄文人が渡ったのです。
●弥生時代には、九州北部と全く同じ甕棺文化圏です。
●古墳時代には、小型の前方後円墳がありました。日本列島で前方後円墳が出現するのより後ですから、日本列島からの影響であることは明白です。
●記紀では、この地域に「任那日本府」があったと記されています。
●さらに、
・シナの正史にも、倭王が海を渡って平定したとの倭の武王の使書をそのまま掲載し、
・シナ側も半島南半分(後の加羅、百済、新羅の地域)での倭の軍事権を認めています。
●また、コリアの「三国史記」にも新羅は倭と境を接していた、昔の新羅は倭人が王や重臣になったとしています。

つまり、朝鮮半島南部には、縄文時代は縄文人、弥生時代は倭人が住み、頻繁に交流していました。

したがって、「伽耶」は日本列島の延長の倭人居住地と捉えるべき地域です。

なお、弥生時代以降、後述するように縄文人と長江人の混血が進み、「倭人」が誕生します。さらに長江文明の流れを引く越系タミル人が加わります。

ちなみに、日本が半島南部から引き揚げるのは、日本側が国内で鉄を賄うことができるようになり、また「半島疲れ」のため、6世紀半ばに撤退した頃です。
この撤退がなければ、日本は大陸に振り回され、シナ文明に同化していたでしょうから、この撤退(準鎖国)は神意とも言えます。

産鉄の伽耶地域と精強な倭人兵を得た新羅は、その後、朝鮮半島の三分の二を統一します。

「伽耶」が分かれば、日韓両国の上古史・古代史がよりクリアに解明できると思いますし、様々な定説を覆す発見があります。


【倭人のベースは、縄文人+長江人(←文献と科学的知見の一致)】

「倭人」とは、現代日本人の直接の先祖であり、遺伝子その他の科学的知見で読み解けば、縄文人と長江文明人の末裔の混血と考えるのが自然です。

長江文明人は、紀元前1000年頃に寒冷化で南下してきた貪欲な黄河文明人(ほぼ今のシナ人)に押し出され、周辺に拡散しました。移住先の1つが九州北部や半島南部で、この地域に水田稲作システムをもたらしたと考えられます。他には東南アジア各地にも移住しました。
つまり、日本と東南アジアは、ともに長江文明の末裔である側面があると考えられます。

(注)弥生時代の始まりが紀元前300年頃というのは教科書執筆者の怠慢で、科学的には炭素14法で紀元前1000年頃だと確定しています。なぜ教科書が変わらないかは謎ですが、文系学者がいかに真理探究から離れているかを示す好事例ではあります。

なお、現代日本人の遺伝子グループでは縄文人の遺伝子が最も多いことが、Y染色体の研究で明らかになっています。

長江文明人も縄文人も平和的な民族です。

(注)半島から渡来した弥生人に駆逐されて縄文人が滅んだというのも教科書執筆者の怠慢です。日本人に一番多いのはY染色体Dグループで4割。このDグループはアイヌでは8割、沖縄では6割なので、明らかに縄文人です。シナやコリアにはDグループは皆無です。日本で次に多いのはO2グループで2割強。これは長江文明人です。一方、半島はO3グループが最も多く、これは黄河流域に多いシナ人グループです。

シナの史書には、倭人は呉の太伯(BC12C)の末裔だとか(晋書)、その風俗は儋耳・朱崖の風俗に似ており、倭は会稽(越)の東にある(魏書)としています。儋耳・朱崖は、いずれも南越国(越の末裔)を滅ぼした前漢が立てた郡です。
つまり、シナ人は、倭人は長江下流域の異民族の末裔と推察していたと考えてよいでしょう。なお、古代シナ語では「越」も「倭」も同じ発音だったそうです。
さすが古代シナ人は洞察力があります。

呉越は長江下流域ですから、文献の示すところは、長江文明人の末裔が日本列島に流れ込んだとの科学的知見に基づく推論と完全に一致します。


【黄河文明より遥かに古い長江文明】
今のシナ文明の直接の源流である黄河文明は、長江文明よりも何千年も「遅く」始まった文明ですから、長江文明が栄えていた時代には、黄河流域は「北の未開地」です。蛮族の地です。

(注)シナが周辺民族を蛮族とする中華思想を形成したのは、自分たちが蛮族だったコンプレックスがあったから、つまり、高度に発達した長江文明人への北の蛮族の劣等感の裏返しか、と思ったりもします。


いわば、「長江文明」から様々な文明を教わって出来たのが、世界史で四大文明の一つとして習う「黄河文明」です。後発の文明です。

日本人は四大文明よりも古い「長江文明」を担った人々の末裔ですから、シナ大陸だけ見ても、今のシナ文明の師匠に当たる文明の流れを汲んでいるという誇りを持ってよいでしょう。

四大文明が始まるのが紀元前三千年くらいですが、さらに時代を遡った紀元前四千年までの地球では、「長江文明」と「縄文文明」くらいしかなかったと言ってよいと思います。

なお、一万五千年前まで遡ると、土器を使っている人類は日本列島にしかおらず、日本列島くらいしか文明的な地域がありませんでした。

日本人は意識していませんが、日本文明は、この最古の「縄文文明」と二番目に古い「長江文明」の両方を継承している唯一の文明です。


【甕棺文化(倭人とタミル人が結びつく!)】
話が壮大に脱線しましたが、ここで話は終わりません。さらに脱線を続けます。

弥生時代の「甕棺文化」の謎があります。

九州北部(筑紫、肥)から半島南部(伽耶)に特異な「甕棺文化圏」が広がっています。(歴史学界から無視され続けていますが、)大野晋という稀代の学者は、弥生時代前期末(BC5世紀)から始まるこの「甕棺文化」は、南インドのタミル文化に酷似していることを発見しました。

甕棺に成人を埋葬する風習、甕棺の形状、子持ち土器の存在とその形状、土器に描かれた線刻画(鹿など)、支石墓など、実に多くの酷似点があり、この両者に関係が無かったとする方が極めて不自然です。

さらに、大野氏は、日本語とタミル語に共通語彙が少なからずあることや、五七調もタミル文学にあることまで発見しています。
なぜ歴史学界が無視するのか不可解ですが、白眼視されても真実を追い求めた大野氏は超一流の学者というべきでしょう。

タミル文化は紀元前1000年頃に栄えていますから、弥生時代の始まりと、時代も合います。


さて、「漢書地理志」によれば、武帝が南越国を征服した後に、南インドの黄支国(タミル人のカーンチー国)に使者を送ったことが記述されています。
前漢帝国が、越人の船乗りを使役して、南インドまで行ったと考えるのが自然でしょう。長江下流域と南インドが古くから交流していたことを物語っています。

そもそも、水田稲作は長江文明で始まりましたが、タミルも水田稲作が盛んでした。ここに既に、長江文明とタミルの交流の痕跡はあったのです。


しかし、東南アジアにも南シナにも、ベトナムを除いて「甕棺」は出土しません。唯一出土するベトナムの甕棺は、タミル人や倭人の「甕棺」とは、外見からして、かなり違います。逆に、タミル人と倭人の「甕棺」がそれほど似過ぎているのです。

(注)縄文時代の日本など世界各地に「甕棺」はありますが、これらは幼児を葬る墓であり、成人を葬る倭人やタミル人のそれとは異なりますし、倭人とタミル人の遺跡以外からは、子持ち土器などは出土しません。


少し視点を変えましょう。
南インドの方に、タミルと倭人の関係を考察するヒントはないでしょうか。

先ほどの「漢書地理志」には、黄支国の風俗は「儋耳・朱崖」の風俗に類似しているとあります!

ここで思い出していただきたいのですが、前述の魏書でも、倭人の風俗は「儋耳・朱崖」の風俗に類似とあります。

つまり、
●倭人≒儋耳・朱崖の人(越人)≒黄支国(南インド)の人
です。

越人は、春秋時代以前には長江下流にいましたが、その後、シナの戦乱を避けて華南に移動し、南越国を建てます。だから、「儋耳・朱崖の風俗に似ている」ということは、昔の越人の風俗に似ているということです。

それを裏付けるかのように、タミル人のY染色体で二番目に多いグループは、長江文明人や倭人と共通するO系統(13.6%)です(一番多いのはH系統(32.9%)です。)。
ただ、O1、O2、O3のいずれかは不詳ですが、交流の長さから考えると長江系(O1、O2)と考えるのが自然だと思います。


考古学的にも(←甕棺文化)、文献的にも(←儋耳・朱崖の風俗)、科学的にも(←Y染色体O系統)、倭人とタミル人が結びつきました。

大野説は正しいのです。

ちなみに、弥生時代の日本列島(と半島南部)で、早くから小国群を形成するのは九州北部から半島南部であり、これら小国群はやがて博多あたりを中心に秩序が形成されます。
したがって、倭人の主流は「甕棺文化圏」に属する倭人だったと考えられます。つまり、タミル文化と濃厚な関係にあった倭人たちが主流です。

(注1)ちなみに、甕棺墓の副葬品は、鏡、玉、剣で、三種の神器と全く同じ構成です。神武天皇は東征前は日向(宮崎県)に本拠地を構えておられたというのが正統伝承ですから、九州北部の倭人は天皇家そのものとは思いませんが、天皇家は甕棺文化も継承しているのです。

(注2)応神系王朝で勢威を誇る竹内宿禰系氏族(葛城氏、蘇我氏、平群氏、紀氏ら)は九州北部の倭人グループ出身だと考えられます。このグループは、半島南部との関わりが深く、鉄を掌握していたと考えられます。


【ミッシングリンク】
ただ、まだ解明されない謎は残ります。

南インドと日本列島の間のシナ大陸の南部に、「甕棺文化」が見つかっていないことです。
単に、貪欲なシナ人が盗掘して破壊し、めぼしい副葬品を持っていっただけか、まだ発掘されていないだけかも知れませんが。

考察を進めるために、可能性を整理すると、
@南インドから、タミル人がBC千年以降に日本列島に渡来したか、
A南シナから、越人がBC千年以降に南インドと日本列島に渡来したか、
です。(一応理屈上は、倭人が南インドに渡ったということも考えられますが。。。)

【伽耶神話とインド】
ここでやはり視点を変えてみたいと思います。

上古コリアの伝承を集めた「三国遺事」に、伽耶の伝承も掲載されています。

それによると、伽耶の中で最も有力だった金官加羅国(金海)の初代王である金首露(スロ=鉄)の后・許黄玉は、なぜかインドから来たと書いています!

(注)これは「伽耶」の伝承ですからコリアンではなく、「甕棺文化圏の倭人」についての伝承です。コリアンの伝承と読んでは完全なる誤りです。伽耶にいたのは倭人です。


これによって、「甕棺文化圏(主流の倭人)」とインドの繋がり方が推察できます。

この伝承は、長江流域には全く触れていません。故に、タミル人は日本列島に南インドから直接渡来したことになります。
上記の@Aでは、@が正解だったようです。

(注)ちなみに、この王族は6世紀半ば、半島への興味が薄れた日本の代わりに台頭した新羅に征服されますが、新羅の将軍(金庾信)として重用されます。新羅は倭人・金庾信を得て後、強くなります。その子孫は繁栄し、今でも金海金氏は大勢おり、大統領を務めた金大中氏もその一人です。金海金氏は倭人、日本と縁が深かった金大中氏は、倭人系大統領ということになります。韓国左派の親玉が倭人の末裔というのは皮肉ですが、彼は天皇陛下を「日王」と呼ばず、「天皇」と呼んでいました。


これは伝承ですから、その舞台は実は南インドなのかも知れません。伝承の骨格は、金首露の后がインド人だったということです。

つまり、南インドにいた越人の王にタミル人の后が嫁ぎ、この王族の子孫が甕棺文化を携えて九州北部から半島南部のエリアに移住した際に、その伝承ごと持ってきて、舞台を伽耶にしたということかも知れません。

だとすれば、先ほどのタミル人のY染色体の構成にかんがみ、南インドで、越人とタミル人の混成部族が形成されたという仮説が立てられます。このうち越人は航海技術とシナ方面の情報という強みを持っていたと考えられますから、何かの拍子で、混成部族ごと九州北部から半島南部に渡来したのでしょう。

何の拍子かと言えば、「洛東江流域に豊富な鉄がある」という情報を越人ネットワークで入手したのではないでしょうか。

つまり、
●BC千年頃に黄河系によって長江流域を追い出された越人は、@一部は華南に移動し、A一部は日本列島周辺に移動して縄文人と混血し、倭人となった。B一方、昔から交易していた南インドなどに移住した越人もおり、彼らはタミル人と混血した。

●越人は海上交易を通じて情報ネットワークを有していた。

●ある時、「洛東江」に「豊富な産鉄地」が発見され、その情報をキャッチしたBのグループが日本列島や洛東江流域に移住してきた(グループC)。なお、大きな河川の下流域の開発は、彼ら越人の得意とするところ。

●Bのグループが、タミルの「甕棺文化」を運んだ。

以上のうち、@は越人、AとCが倭人、Bは越系タミル人と呼ぶべきものです。

この推論で重要なのは、「越人のネットワーク」という補助線を引くことです。


【タミル人の渡来時期】
タミル人が渡来したのは、おそらく弥生時代に入ってしばらくしてからだと考えられます。

なぜならタミル人を特徴付けている「甕棺文化」は、九州北部(福岡県、佐賀県、熊本県)と半島南部(洛東江流域)に限定されるからです。

弥生文化は、縄文晩期の食料難にあった西日本を中心に瞬く間に広まりましたが、仮にタミル人グループによって水田稲作がもたらされたなら、西日本全域に「甕棺文化」が広まってないとおかしいです。しかし、現実は「甕棺文化」は弥生世界のごく一部です。

したがって、まず倭人社会が形成された後にタミル人が越人系タミル人の案内で渡来したと考えるのが妥当なところだと考えられます。

つまり、まず南インドまで広がる先述の「越人ネットワーク」がY染色体O1、O2グループの人たちによって形成された緩やかな交易圏として形成されていたと仮定します。

この仮説に立てば、洛東江流域に豊富な鉄が発見されたという情報が「越人ネットワーク」に広まり、鉄資源を求めてタミル人が渡来したと推論することが可能です。彼らは、鉄が農業生産を高めて富をもたらすことを知っていたのでしょう。

最初に渡来したのは、洛東江流域でしょう。

炭素14法では、最も古い時代の甕棺は金海(洛東江下流の金官加羅)のものでBC400年頃という結果があるそうです。

金官加羅(金海)は、先述の伝承の金首露(倭人名は不明)が天降ったとされる国であり、伽耶の中心であり続けました。
この「金」も「スロ(首露)」も「鉄」を意味するというのは示唆深いです。なお、金首露という名は「鉄鉄」なのでいかにも取ってつけた感じがあります。

いずれにしろ、この許黄玉伝承は、
●「甕棺文化」を持つタミル人が、鉄を求めて洛東江に渡来した
という上記の推論と整合します。


【2つの天孫降臨神話】
別の視点から、もう少し掘り下げたいと思います。

日本の天孫降臨神話と金首露の天孫降臨神話は似ています。

例えば、日本の場合はクジフルタケに降臨し、金首露の場合はクジボンに降臨しており、同源の神話であることをうかがわせます。

ただ、日本ではニニギ尊に五伴緒(アメノコヤネ命等の五部族)を付けて降臨させ、天照大神がニニギ尊に授けた言葉も伝わっているのに対し、金首露は六つの卵が降臨したことになっています。
個人的感想ですが、神聖さが全く違います。

日本の方が、詳しいですし、神代からの流れが見事につながっていますので、本家であろうと思います。

では、日本の天孫降臨神話に鉄を匂わせる一族が出てくるか。
辛うじて、先の五伴緒のイシコリドメは「金属加工(鋳物)」の神とされています。

ちなみに、製鉄と鋳物は違います。
製鉄は鉄鉱石や砂金から不純物を取り除いて鉄を取り出すことであり、鋳物はその鉄を溶かして鋳型にはめて道具にすることです。イシコリドメは鋳物の方であり、祭祀に使う鏡を加工する部族です。

この点が重要だと思うのですが、五伴緒の最初に書かれるのが祭祀部族(中臣、忌部)、その次が祭祀芸能部族(猿女)です。祭祀部族の地位が高かったことが分かります。
また、残りの2部族も鏡(イシコリドメ)と玉造という祭祀器具に関わる部族です。

高位から、(皇祖→)祭祀→祭祀芸能→祭祀器具という順です。

となると、製鉄民は「天孫集団」を中心とする集団の中では、それほど地位が高くなかったことになります。
つまり、「天孫集団」が製鉄民を上手に使ったのです。道具(功利)に振り回されるのではなく、道具を何に使うのかを大切に考えたのです。「天孫集団」は祭祀を重視しました。


話を戻します。
仮にBC400年という計測が正しければ、弥生時代の始まりから約5〜600年以上経った時期です。既に、初期の弥生社会が形成されつつあった時代です。

「甕棺文化」の始まりは弥生前期末(BC5世紀)とされています。タミル人の渡来と伽耶鉄の入手を経て、弥生時代は中期へと移行します。

つまり、タミル人渡来は、弥生のエポックメーキングな事件だったと考えられます。

弥生社会が形成されている中で、鉄を手に入れた越人系タミル人は、各地で開拓して農業生産を増やし、経済力も軍事力も急速に高め、倭人の主流になっていったと推測できます。

「国譲り」の神話は、この時代の社会の変化を反映していると思います。タミル人以前の弥生社会の象徴がオオクニヌシ命であり、祭祀を軸に据え、鉄を道具として使いこなしたタミル人の登場で日本列島と半島南部の弥生社会は大きく変化していくことになります。

出雲が初期弥生社会の代表であり、その後に、国譲り→天孫降臨→神武天皇の東征→・・と続きます。

国譲りの前の初期弥生社会を古事記では「さわに、・・さばえなす邪しき神あり」と表現し、大祓祝詞では天孫降臨で「荒ぶる神々を神問わしに問わし給ひ、神祓えに祓え給ひて」とあります。
また、この時代の統治を「うしはく(民の私物化)」と表現し、天皇が弱い人に寄り添われる統治を表す「しらす」と区別しています。

天孫降臨の意義は、邪しき神や荒ぶる神々がいて民が私物化されていた日本列島から、これらの神々を祓い、民が安らげる国を作ることだったと考えられます。

これこそが天武天皇が編纂を命じた古事記や日本書紀の最も根幹の部分です。シナ文明人から何と思われようと、根幹を揺るがせにしない姿勢は素晴らしいです。


【越系タミル人と天孫集団】
ここで、越系タミル人と天孫集団の関係を考察しておきたいと思います。一部?妄想を交えます。

両者には何らかの強い結びつきはあると考えられますが、この時代に変化を起こしたのは考古学的には、一見、越系タミル人のように見えますが、神話的には祭祀を重視した天孫集団です。

越系タミル人と天孫集団は、一応は別物であるように感じます。
今のところ、私は「天孫集団」は、古代イスラエルと何らかの関係を感じます(久保有政氏「日本とユダヤ運命の遺伝子」、ラビMトケイヤー「日本・ユダヤ封印の古代史」、ヨセフ・アイデルバーグ「大和民族はユダヤ人だった」、エリ・コーヘン元駐日イスラエル大使「驚くほど似ている日本とユダヤ人」)。

天孫集団が越系タミル人だとすると、古代イスラエルの入る余地がなくなりますが、上記のいくつかの著書(その多くはユダヤ人が日本人や神道に共通性を見出したもの)が間違っているとは思えません。天皇が最高神官である神道には、古代イスラエルとの共通性が多いと指摘されています。


一方、傾聴すべき学者である大野晋氏の研究によれば、越系タミル人はその後の日本文化に巨大な影響を与えたと考えられます。タミル語と日本語で類縁関係にあるのは、祭祀系の言葉も含まれておりますが、天孫降臨神話での「祭祀」の重要性は、先ほど見たとおりです。まさに、天孫集団の存在意義そのものです。この使用言語の謎については後述します。

五七調もタミルのサンガム文化に見いだせるとのことです。和歌は日本文化の深層ですし、天皇とも深い関わりがあります。

タミル由来の甕棺文化圏における副葬品は、鏡、剣、勾玉であり、「三種の神器」と一致します。なお、三種の神器は天孫降臨で天照大神がニニギ尊に持参させたものです。

すなわち、別物とはいえ、タミル人と天孫集団は、かなり融合していたと推察できます。

何処で融合したかと言えば、タミル人が南インドから日本列島に直接渡来したのであれば、南インドか日本列島かの二者択一です。
上述の「三種の神器」からうかがえるのは、日本列島に渡来した直後には、既に祭祀は融合していたことです。だとすれば、南インドで融合していたことになります。

南インドは不思議な土地柄で西側はオリエント世界と交流し、東側はアジア世界と交流していました。

さて、アッシリアに捕囚され、強制移住させられた古代イスラエルの「失われた十支族」は、アッシリア滅亡後どうなったか分かりません。現代イスラエルの民間機関(アミシャブ)の研究の結果、アフガン、ミャンマーなどからその末裔が発見されていますから、オリエントを後にした集団がいたのはたしかです。

キリストの弟子トマスは、イスラエルの地を去った後、西インドで布教しますから、古代オリエントの感覚では、西インドまでは隔絶した世界ではありません。イスラエルでもインドでもアラム語を話していました。今の英語圏のようなものです。

「失われた十支族」の一部は南インドに至り、そこで越系タミル人集団と融合した可能性は検討に値すると思います。


ここからは、ほぼ妄想です。何ら証拠はありません。

「失われた十支族」の主力集団は、アッシリアを去り、西インドから南インドへと至ります。ここで越系タミル人社会に徐々に融合し、上位に立ちます。
旧約聖書では、「失われた十支族」は、捕囚前は北イスラエル王国(サマリア王国)を構成しており、唯一神を信仰しなかったことで神の罰として捕囚されたとされています。つまり、彼らは他宗教に寛容だったという特徴を持っています。

随分前の記事に書いたのですが、これ自体が神の計画であり、イスラエルの地から「十支族」を連れ去ることが本当の目的だったと考えています。

実際、どこまで神が厳格だったかは疑問であり、ある預言者には神がペルシャを導いたという天啓を下しています。ペルシャは異教です。

古代オリエント、特にカナンの地に蔓延していた外在神への信仰(しかも悪魔信仰)から民を守るために、他の神を信じるなと教えたのではないでしょうか。

不良が多い学校では、親は可愛い子供に「交わるな。染まるな」と教えると思います。


さて、イスラエル人は天啓を受けやすい霊媒体質の民族です。
モーゼがイスラエル人を率いて出エジプトしたのは、天啓が始まりでした(「旧約聖書 出エジプト記」)。その後も、イザヤ、ダニエルなど多数の預言者が天啓を受けます。

越系タミル人との融合が進んでいた頃、「十支族」に「東(日本列島)へ行け」という天啓を受けた偉大な預言者がいて、彼らはこの預言者に率いられたのかも知れません(この預言者こそがニニギ尊?)。

神からすれば、南インドは方便に過ぎず、目的地は日本列島です。

ちょうどその頃、神の思し召しか、天孫集団と密接な関わりのあった越系タミル人にも極東の産鉄地に移住する動機が生じたので、強烈なカリスマ性を持つ預言者(第二のモーゼ)に率いられた形で民族の大移動が起こったのかも知れません。
あるいは、「東へ行け」の天啓を信じて、越系タミル人がネットワークを使って探査したところ、極東に産鉄地があることが分かったのかも知れません。

こうした契機で、「十支族」と越系タミル人の大移動が始まります。

極東に到着して、越系タミル人が濃いグループは鉄と農地を求めて伽耶・筑紫・肥に定着し、天孫集団が濃いグループは日向に定着し、その後も相互に混在・交流していたのでしょう(ニニギ尊の時代)。

しかし、強烈なカリスマ性を持った預言者が亡くなって年月が経つほどに、富を蓄えた越系タミル人側(海幸彦)が傲慢になったことから争いとなり、霊能に優れた天孫集団(山幸彦)が天祐を得て勝利したのかも知れません(海幸彦山幸彦神話。別名、日向神話)。

神話では、勝利した山幸彦(アメノホヲリ尊)と龍女の間に産まれたのが、ウガヤフキアエズ尊(神武天皇の父君)となっています。ウガヤフキアエズ尊に国津神の要素はありません。この点は少し重要です。


鉄を掌握した越系タミル人は弥生中期以降の倭人社会の形成をリードし、彼らの言語(五七調の詩を含む)が日本語のベースになりました。商業を握ったアラム人の言葉(アラム語)が古代オリエントの共通言語になったのと似ています。

天孫集団は彼らの上位にいましたが、言語などは越系タミル人のそれを受容したようです。

これは、アングロサクソンと英国王室の関係に似ています。
ノルマン人やドイツ人の王室はアングロサクソンよりも上位にありましたが、言語はアングロサクソンのそれ(つまり英語)を受容しています。

天孫集団と越系タミル人のこの関係は、天孫降臨神話にかんがみれば、南インドで既に原型が形成されていて、海幸彦と山幸彦の争いを経て確定したのではないかと思います。

以上を総合すると、南インドで日本の統治構造の原型が形成され、それが日本に移植されたと妄想します。学者たちがスルーし続ける南インドこそ、大変重要だと感じます。時が至るまで学者のスルーは続くのでしょうが、そろそろその時だと思います。


【ウガヤ朝とは?】
ようやく冒頭の「ウガヤ朝」を考える素材が揃いました。

「ウガヤ朝」伝承の場合の「ウガヤ」の「カヤ」は、村と国の中間くらいの小国を指す倭語だろうと推察します。「フキアエズ」は、今のところ意味が分かりません。

古事記ではウガヤフキアエズ尊は一代限りですが、古史古伝では約50〜70代にわたる王朝として描かれています。

そのネタ本と考えられるウエツフミが成立したとされる鎌倉時代までの歴代天皇は約80代を数えますが、これはウエツフミのウガヤ朝が約70代であるのと奇妙な類似を見せています。
天皇と同じくらいの長期にわたって、日本を統治した王朝がある(→天皇家が相対化されてしまう)という偽伝承を創作したかったのかも知れません。

同書では、「ウガヤ朝」は国東半島の根本に近い臼杵にあったとしています。瀬戸内海の西端です。「ウ・スキ」です。「スキ」は農村共同体の意味ですので、「ウ・スキ」は「ウ・ガヤ」に通じます。ウは古事記の伝承通り、鵜かも知れません。

この国東半島は甕棺文化圏ではありません。

「ウガヤ朝」伝承は、
@国東半島あたりにあった前期弥生社会の伝承
A古墳時代頃まで並存していた東九州などの社会の伝承(ウガヤ朝の天皇の何代目は、大和朝廷のそれに概ね対応?)
を描いているのではないかと思います。

だとすれば、@は、天孫集団や越系タミル人が渡来する前の稲作倭人社会であり、「長江文明」の要素を色濃く残していたと考えられます。記述内容は、稲作、暦、医療・健康法、統治構造などになります。

長江文明は、農耕など黄河文明に影響を与えたと考えられる知の体系ですから、その誇りを何らかの形で残したかったのではないかと思います。それが独自伝承の中核にあるのだろうと思います。

(注)だとすれば、長江文明を探る貴重なテキストです。また、初期弥生社会を探るテキストでもあるでしょう。ただ、後述のように取り扱いには注意が必要です。


また、第15代のウガヤフキアエズの時代に三韓に遠征したことなども記されていますが、神武天皇以前に三韓は建国していませんので違和感があります。

こうした記述は、上記Aの類だろうと思います。
神武天皇以前のことではなく、ずっと後世の出来事を「ウガヤ朝」の出来事と偽って記述しているのではないかと思います。

おそらく、古事記の各天皇の記事と並列して記載すべき補足記事群です。それを神武天皇より前に持って来たということです。

だとすれば、ウエツフミは、九州の目から見た、古事記の補足記事群として読めばよいことになります。

(注)なお、系図は歴代天皇のそれとは全く整合性が認められないので、ウガヤ家の系図と考えます。したがって、天皇の何代目とウガヤ何代目はズレが生じます。


半島やシナなどの外交関係の記事が見出せるのは、九州の特殊性が影響しているのだと思います。

余談ですが、第15代の応神天皇からの巨大古墳の時代に、伽耶の鉄と半島南部の覇権を巡り、倭と高句麗が争い、この戦争に九州の豪族が駆り出されます。

九州に多い装飾古墳には、騎馬や弓矢、波が描かれています。あの壁画は、海を渡って、騎馬と弓矢の戦いが得意な高句麗軍と戦ったから、生まれた芸術だろうと思います。

熾烈な戦いと、先祖に武運を祈る思い。。

(注)こうした土壌の上に、国東半島の宇佐八幡が建立されたのだと考えられます(http://66575033.at.webry.info/201507/article_12.html)。


【補足(渡来人)】
半島からの渡来人について新しい見方を提案したいと思います。

三国時代(高句麗、百済、新羅)に日本列島に流れてきた氏族の多くは、これまではコリアンだと考えられてきました。「半島に居住するのはコリアン」という固定観念の仕業です。

半島には多数の倭人が居住していた、というか半島南部は倭人が開いたようなものなので、これらオールドカマー渡来人は「半島倭人」である可能性があります。
例えば、アヤ氏が渡来前に居住していたと考えられる安羅は金海の近傍であり、伽耶地域ですから、「半島倭人」の可能性が非常に高いと思います。

先述を踏まえると、越系タミル人の末裔です。

大和朝廷の半島への勢力が拡大するにつれ、大和朝廷での半島倭人の活躍の機会が増え、憧れの大和盆地に渡来してきたのではないかと考えられます。


一方、竹内宿禰系(葛城氏、蘇我氏、平群氏、紀氏ら)は、「九州北部の倭人」と考えるべきでしょう。鉄を掌握しており、そのため、大和朝廷でも重用されたと考えられます。蘇我氏=コリアン説は底が浅いです。

常識的に考えて、蘇我氏は九州倭人です。彼らは鉄を扱い、半島倭人と太いコネクションがありましたから、そこを通じて様々な半島人を呼んできたのではないかと思います。

これら半島倭人も九州倭人も、越系タミル人を出自とした豪族で、大陸的で、海幸彦と同様、力を信奉する面があったようです。その結果、彼らが活躍した時代、皇位は不安定になります。

彼らは、倭が積極的に半島に進出していた、巨大古墳の時代に活躍しました。

外来文化を消化するための手と口の役割を果たしたと言えると思います。

なお、三国時代の末期、新羅の統一の難を逃れて日本列島に渡来したのはコリアンです。彼らは、カルト的な朝鮮仏教を広めました。


【古史古伝は、日本神話の構造を崩壊させる】
「ウガヤ朝」伝承を神武天皇の前にはめ込んだことで、神武天皇は国津神の直系になってしまい、皇統が天照大神と断絶してしまいます。
つまり、「天津神の子孫による統治(シラス)」という神話の構造が崩壊してしまいます。

古史古伝には、こういった類の歪曲をしているものが多いので要注意です。

例えば、秀真伝(ホツマツタエ)という古史古伝では、イザナギ・イザナミ両神を人間として記述しています。天武天皇がなぜ神代から歴史を説き起こさせたか、それがその後の「和魂」にどれほどの大きな影響を与えたか、思いを致してません。神代から始まる正史を野蛮とでも思っているのでしょうか。本居宣長の嫌った漢心(からごころ)です。

また、民間の歴史家を名乗る解釈者が、「シラス」という我が国固有の統治方法を知らないために、天孫族を侵略者と歪曲している場合も多いですから、これも要注意です。

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上古史(縄文人+越人が倭人の母体。その後、越系タミル人+イスラエル十部族渡来。「ウガヤ朝」伝承考) 大祓の国/BIGLOBEウェブリブログ
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