フランス革命60年史と明治維新

【フランス革命は60年間】
フランス革命のような歴史上の大事件は、未来を考える上でいろいろと教訓に富んだ含蓄があります。以下、フランス革命を考察したいと思います。
学校の歴史教育では、フランス革命は1789年と習いますが、実際のところは秩序を回復するまで、二世代、60年間かかっています。

まず考えないといけないのは、後述するように「正統性(レジティマシー)」です。社会秩序の淵源は正統性ですから、この問題は重いです。
これは、1789年以降、「共和政」と「王政又は帝政」の両極での振り子現象として現れました。

次に考えるべきは、産業革命と社会変容です。新しい階層が出現するとともに、労働者の貧困という新たな問題が発生しました。
これは、1830年以降、「自由」と「平等」の両極での振り子現象として現れました。後者は社会主義であり、その後150年以上もの間、欧州政治でお馴染みになる保革対立の構図の原型です。

そもそも、啓蒙思想自体が1770年代からの産業革命による新階層の出現に淵源があるとするならば、産業革命に起因する諸問題は、啓蒙思想の実験であるフランス革命を読み解く上でも無視してはならない問題でしょう。

それでは、フランス革命の歴史を概観したいと思います。

【正統性】
いわゆるアンシャン・レジーム(非課税の僧侶・貴族を市民の重税で支える不公平税制)に対する不満が市民の間にマグマのように蓄積され、啓蒙思想の広まりと相まって、1789年、爆発した。

啓蒙思想の広まりがなければ、フランス革命はなかったと考えられる。それまでの「王権神授説」に対し、啓蒙思想は、これを全否定する「社会契約説」を基盤とし、悪い政府には抵抗しても良いという「抵抗権」を正面から認めていました。
この「社会契約説」と「抵抗権」という理論武装がなければ、革命とは神に背く恐ろしい悪行であったはずです。

ここから1830年までの約40年間は、「王政」と「共和政」の軸を振り子が振れる時代であり、周辺国も警戒注視しています。


隠れテーマは「正統性(レジティマシー)」です。


なお、社会の階層化や格差を生む「富裕層優遇」は、フランスの伝統のようなもので、今のマクロン政権に対するイエローベスト運動も、ほぼ同じ構図だと何人かの識者が指摘しています。
こうした格差助長の社会風土は、シナやコリアに似ていなくもありません。元々カトリック文明にはシナ文明に似ている点も多いですから、カトリックをベースとするフランスで、シナと類似のことが起こるのは首肯できるところです。
https://s.webry.info/sp/66575033.at.webry.info/201709/article_2.html

話を戻します。

18世紀末において、「共和政」はまだまだ実験段階で、「正統性(レジティマシー)」が薄弱です。
「王政」に慣れた大半の人々からすれば、「共和政、何それ?王様と折り合いをつけがればいいだけじゃないの?」というのが本音のところでしょう。

このためか、共和政革命はやがて、ロベスピエールのジャコバン派による恐怖の粛清(4万人をギロチン)へとエスカレートします。

これはロシア革命後の粛清の嵐に似ています。「正統性」を国民に刻み込むために、原始的な恐怖という感情に訴えかけたと考えられます。
ロシア革命と同様、フランス革命にはこうした野蛮性があったことを忘れてはならないでしょう。

ジャコバン派の読みとは逆に、人々は恐怖に疲れ、人心は革新勢力から離れていきました。そして、人心の動きを察知した二人のたぬき(タレーラン、フーシェ)が裏で動いて反ジャコバン派のクーデター(1794年、テルミドールのクーデター)が成功。

しばらく総裁政府による小康状態を得ました。革命5年後のことでした。
「王政」と「共和政」という二つの対立軸を振り子が揺れ、ジャコバン派の時に大きく極に振れた後、少し揺り戻しがあった感じです。

しかし、フランス革命(王政打倒、共和政樹立)の輸出を警戒する諸国がフランス包囲網を形成し、ジャコバン派政府の後の総裁政府は、外交問題を打開できずにいました。

外交の極致は軍事であるし、周辺国との間に軍事的緊張が高まっていたので、約10年間かけて、天才的軍人のナポレオンが政治を掌握していきます。
1804年、ナポレオンが皇帝に即位。革命から15年後のことでした。正統性は「共和政」から「王政(帝政)」に移りました。王政の残滓が帝政を可能にしたと考えられます。

ここから10年間、つまり革命から25年後まで欧州の秩序変更の一つ目の大嵐が吹き荒れます。

【ウィーン体制】
ナポレオン失脚後にヨーロッパ諸国が集まり、今後の在り方について話し合うウィーン会議が開催されました。
当初はナポレオンが広めようとした新秩序をどう扱うかがベースになったため、「会議は踊る、されど進まず」と言われる長丁場になります。
やがて敗戦国フランスの海千山千のタレーランの提案で、1793年以前の秩序に戻すという「正統主義」を原則として整理することになりました。復古主義です。
これにより、フランスはブルボン朝が復活することとなります。このため、フランスではルイ18世、次いでシャルル10世が即位し、絶対王政を復活させることになりました。


【保革対立の構図形成】
絶対王政の復活は1789年以降の努力を無にするものですが、しばらくは復古体制は盤石でした。
1820年~25年に、スペイン、イタリア、ギリシャなど南欧では、フランス革命の残滓であるナショナリズム的な立憲革命が火を吹き、ギリシャ(オスマン帝国からの独立運動を兼ねる)以外は鎮圧されていきます。

革命の震源地であったフランスでは、議会解散や選挙権縮小を命ずる1830年の「7月勅令」を機に不満が爆発し、ブルボン朝を吹き飛ばす革命が起こり、オルレアン家のルイ・フィリップが担がれました。

この第二次革命というべき動きは、銀行家(ラフィット)が黒幕であり、1930年以降のフランスは、ラフィットの差配の下、「産業革命」を推進しました。(ラフィット自身はすぐに辞任しますが。。)

つまり、1930年の七月革命は、復古体制下で蓄積した不満マグマを銀行家のラフィットが上手く利用して「産業革命」への軌道を敷いたという性格が濃いと考えられます。

七月革命の第一の性格は、王政と金融資本の結合です。
第二の性格は、表は選挙権縮小への反対でありつつ、本音は「産業革命」という点です。

産業振興は、均質な所得向上に結びつけば理想的なのですが、そもそも格差社会を放置するマインドが濃い社会風土のフランスで、それはあり得ません。格差が増大し、都市に流入した労働者が困窮していきます。当然のごとくにこの状況は放置でした。

また、景気変動によって、失業者が大量に発生するという宿痾を抱え込みます。これが農業であれば「凶作」は運が悪かったということですが、「不況」の場合は、それでは済みません。

産業は人為的なものだから人為的な政策でなんとかすべし、というのが人情です。

1830年からの18年間で、労働者や失業者の不満が蓄積され、これが「二月革命」へと結びつきます。
そこに至るまでに、思想としての社会主義も準備されてきました。

「二月革命」は、黒幕とビジョンなき革命です。しかし、それゆえにか本格的で分かりやすい革命です。

一つには、「普通選挙」が約束されました。
一つには、ついに「王政」が瓦解しました。

この二つは、1789年のいわゆるフランス革命の際に導入されるはずのものでしたが、見合わされたものです。約60年、二世代の紆余曲折を経て、やっとフランス革命の初期の目的が達成されたのでした。

つまり、「共和政」に正統性が与えられ、その手段として「普通選挙」が採用されました。

1789年にフランス市民が採った選択の帰結がようやく見えたのでした。

そこに至るまで、
・革命初期のジャコバン派の「恐怖政治」、
・1804年~ナポレオンの「帝政」、
・1815年~ブルボン朝への「揺り戻し」、
・1830年からの「産業革命」を経て、
ようやくたどり着いたフランス国民の結論でした。
(この後、ナポレオン3世という時代遅れ現象はありますが。。。)

これは上記のように一つの帰結であるとともに、その後の欧州政治にとっての「予言」というか、「原型」でもありました。

つまり、
・自由主義的な産業振興(パイの拡大)
・社会主義的な労働者保護(パイの分配)
のいずれに軸足を置くかを交代交代に行う一つの型が出来ました。
前者は、1830年~48年で、後者は1848年に垣間見えた社会主義政策です。まだまだ幼稚なものに過ぎませんでしたが。。

【フランス革命まとめ】
以上見てきたように、1789年~1848年の約60年間のフランス革命史を見ると、
○まず「正統性」が争われ(普通選挙で決着)、
○途中から「自由」と「平等」のいずれに比重を置くか(正当性justness)が争われた
ということが言えるだろうと思います。

【明治維新】
この点、明治維新の場合、それを支えた啓蒙思想が「尊王論」だったため、まず「正統性」については争われることなく、大きな騒乱を経ずに済んだと言えます(https://s.webry.info/sp/66575033.at.webry.info/201811/article_3.html)。
天皇の存在は、極めて大きいです。

一方、もう一つのテーマである「平等」(裏返せば格差問題)は放置され、天皇を担いでの社会主義変革が北一輝や大川周明によって模索されたものの、それとて「天皇利用」の詐術の域を出ず、真っ当な形で変革が進むことはなく、やがて軍部と革新官僚によっていびつな形で社会主義的な変革が進められたと言えると思います。

戦前一向に進まなかった「平等」への変革ですが、戦後のGHQ改革で一気に進んだのは評価すべきと思います(https://s.webry.info/sp/66575033.at.webry.info/201810/article_3.html)。





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