縄文と里山②(日本型文明を持つ日本の使命)

縄文人の多くは、弥生時代以降、農民になったと考えられます。

ミトコンドリアDNA(母系)の研究も、Y染色体(男系)の研究も、核遺伝子(先祖全体)の研究も、全てがそれを指し示しています。
渡来弥生人が縄文人を駆逐したという仮説を定説のように書いている教科書や戦後の歴史学は間違いだと証明されました。いつになったら歴史学者や教科書執筆者は、科学的事実を受け入れるのでしょうか。

それはさて置くとして、縄文人が農民になったということは、農村に縄文文明(日本型文明)が残っているはずです。

私は、それが里山だと考えます。
里山では、シイ、コナラ、クヌギ、柿、竹を整備し、トチの実、キイチゴ、栗、アケビ、柿などの木の実、ワラビ、タケノコ、シイタケ、シメジ、さらには小動物などを得ていました。また、薪や落ち葉などは燃料や肥料に使っていました。子供にとっては絶好の遊び場であり、自然がいろいろなことを教えてくれたことでしょう。

これは、縄文時代の延長と考えられないでしょうか。里山に縄文文明が色濃く残っているのではないかと思います。

また、手入れをした里山の森は、風や砂埃を和らげてくれ、スポンジのような森とその下の土は土砂崩れや洪水を防いでくれます。

農民は、里山の存在によって、食糧、燃料、肥料、防災減災といった自然の恵みを得ていました。

里山には、上述のように多様な生物資源があります。自然と人工に分けると、かなり自然に寄った姿です。人間と自然が共存している姿であり、これを日本人はごく当たり前に実現していました。

その「当たり前」の背後には、自然に親しみつつ感謝する、という縄文以来の日本型文明が見えてきます。
里山の自然で育った人たちにとって、自然は親しみやすい友達でもあったと思います。テクノロジーを駆使した大仰な文明ではなく、大変親しみやすい文明です。

これに対して、田畑は、ほぼ単一の生物資源です。人工的です。
それまで森林があった土地を開墾し、まず土だけの状態にし、水を引いてきて単一の植物を育てるのが田畑です。

同じ自然と接すると言っても、里山とは接する姿勢が全く違います。

日本型文明の里山は自然と人間が共存しているのに対し、田畑は自然を「利用対象」として見ています。
これは、大陸型文明が自然を利用対象としてしか見ないことと通底しています。人間が利用するために研究し、何らかの原理を見つけるのが大陸型のテクノロジー崇拝文明です。

つまり、農村には、日本型文明と大陸型文明が共存しているということになります。


自然と共存してきた縄文人が土地の人為的利用である大陸型の農耕を受け入れる際、抵抗感はあったでしょう。

しかし、農耕によるたわわな収穫を見る中で大陸農耕は魅力的に映ったのでしょう。やがて農耕を採用した縄文人の人口が増えていったでしょう。

ただ、大陸型に完全に切り換えるのではなく、多様性と自然への親しみを「里山」の形で残すことによって、バランスを取ったのだと思います。

里山の他には、自然への畏敬を「神社(鎮守の杜)」や無形の「祭り」として残したのだと思います。
縄文時代から自然の神々への感謝を捧げる祭祀をしていた場所を聖域として残し、コミュニティの紐帯の基礎として「敬神崇祖」を置くことで、日本型文明を残してくれたのではないでしょうか。

「里山」と「神社・祭り」によって、大陸型農耕の時代においても、人間からの親愛や感謝によって、人間と自然が交流する日本型文明が残ったのだと考えられます。

今、「里山」が注目されつつあるのは良いことだと思います。「里山」を深めていけば、日本人は日本型文明(縄文)を再発見することになります。

大陸型文明では、生物多様性とか、(人間関係では)ダイバーシティとか言ってまず頭で理解しようとしますが、日本型文明ではそうした理屈よりも、「まず親しみありき」だろうと思います。
「親しみ」あるがゆえに、その自然が破壊されるのは堪えられないし、「破壊を防ぐために何か知恵を出したい」というインセンティブも引き出されるのではないかと思います。

環境破壊は、酸性雨もオゾン層破壊も地球規模ですから、地球を一つの大きな「里山」と見てみたらいいのではないかと思います。

有害物質のために「里山」の木々が枯れ、木の実が実らず、小動物が減少しているとしたら。。これまでの人間活動を「反省」し、なんとか「ルール」を作ってみんなで守ろうとするでしょう。あるいは、有害物質を減らす技術を開発しようとするでしょう。

百パーセント日本型文明の人たちで構成される地球であれば、管理しなくても、技術に頼らなくても問題をみんなの感性的な力で解決してしまうでしょう。
しかし、現代を生きる殆どの人類が、当の日本人を含めて大陸型文明にどっぷり浸かっている中ですから、テクノロジーや管理といった、大陸型に響く手法を採用する必要はあると思います。

「なら結局、日本型文明の出る幕ないね」という声が聞こえてきそうですが、自然と共感する力を根底に置くかどうかは、何か大きな違いを生む予感がします。

自然と人間の情の通い合いということがあると思います。人類の1割(7億人)が地球・自然と情が通い合えば、何かが変わるような気がします。
表面的には、物資やエネルギーの消費行動に変化が現れると思いますし、現に日本人が省エネであるのは、根底には、日本型文明の影響があるのではないかと思います。エコ商品を買おうとするのも同じです。

これがEUでは、極端な管理によって統制しようとします。共産主義と同じ設計主義であり、イギリス国民がEU離脱を決めたのも、EUの超管理主義に嫌気がさしたというのがあると思います。
一方、アメリカはルールに参加しようとしません。シナに至っては自国民の健康に重大な影響がある公害問題も放置しています。地球環境問題に真剣に取り組むことはまずないです。

つまり、地球環境問題の解決に管理手法だけを使おうとするのは破綻が見えています。

そのアプローチ手法の根幹は「このままでは人類の生存がヤバい」という爬虫類脳への働きかけです。生存本能、食欲、性欲などのプリミティブな本能は爬虫類脳が司っており、資本主義社会で発達した上手いコマーシャルなどはここを刺激します。
今の地球環境問題は、この爬虫類脳に働きかけるアプローチを取っているように思います。

しかし、日本のアニメやドラマなどは、進撃の巨人も、寄生獣も、スペックも、地球からの人類への反撃がテーマです。地球を擬人化(擬神化)しているのは、さすが日本人です。これは日本型文明の産物です。

まず土台として、爬虫類脳への刺激ではなく、自然や地球への「親しみ」を根底に置くアプローチはないものでしょうか。
物事の本質は、「人類が生存できなくなる」という人類のエゴではなく、「地球や自然が可愛そう」という親愛の情を取り戻すことだと思います。

エゴに訴えかけても、先進国、途上国それぞれのエゴが引き出されるだけではないでしょうか。
大陸型文明が9割以上を占める人類社会ですから(と言っても地球生命からすれば、1割にも満たないのでしょうが)、今の手法を全否定するつもりはありませんが、別のアプローチ「も」そろそろ試してみてはどうかと思います。

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