死刑執行に思う(70年代後半からの闇)

死刑制度の是非は、「進歩的」でない私には分かりません。

今回の死刑執行の理由については、
○共犯者全員の裁判が確定し、証人として出頭させる必要がなくなったから。
○平成が終わる前にカタをつけるのが望ましいから。
○現大臣は、十年近く前に、犯罪被害者を守る法制化をした議員だったから。
○テロ等準備罪が施行され、テロには厳罰で対処する姿勢を示す必要があるから。
といった要素を考慮する必要があるのではないかと思います。

上川陽子法相は、一生SPが付くそうです。それだけの厳粛で重い判断をしたということです。SNSの投稿などを見ていると、法相を批判する人もいますが、絶対いろいろと思い悩んでの結論だと確信します。

教祖の死刑で、四半世紀前の日本を震撼させたテロ事件に、平成のうちに一つの区切りがついたように思います。
死刑には「罪に対して裁きを明確に下す」という積極的な意味はあるように感じました。「被害者が出るような犯罪は絶対に許さない」という意思表示です。


亡くなられた方々もおられますし、被害者の中は、事件後もずっと後遺症に悩まされ続け、普通の生活を諦めざるを得なかった人も多いと聞きます。亡くなられた方々のご冥福と被害者へのお見舞いを衷心より表したいと思います。

若い人たちが、教祖を信じ切って起こしてしまったテロ行為、無実の被害者と遺族を今でも苦しめている重大行為には、いろいろと考えさせられるものがあります。


【のめり込む信者①(洗脳)】
まず洗脳の怖さです。

長時間、食事や睡眠を奪われる限界状態に置かれて、一つの価値観を流し込まれると人間は洗脳されやすくなるそうです。修行という形で、限界状態は日常だったでしょう。

それに加えて、彼らは全てをお布施したので戻るところはありません。
行列のできるラーメン屋理論で、人間は「自分の過去の判断を是認したい」という認知バイアスがかかります。
彼らがまさにそうで、「もうこの教団に全てをかけるしかない。それが正しい判断。それ以外は心の弱さゆえの誘惑に過ぎない」という認知バイアスに陥ったことでしょう。
それがラーメンであれば、何の害もないのですが。。。

蛇足ですが、彼らには、その過去の自分の誤りと真正面から向き合ってほしいと心から願います。誤りを認めると楽になります。


【のめり込む信者②(承認欲求)】
また、テレビでやっていましたが、幹部にまでなるような熱心な信者は、「教祖が一番分かってくれている」という感情に支配されたそうです。
「教祖によって承認欲求が満たされた」ということです。

実行犯の中には、将来を嘱望された優秀な人材もいたことでしょう。
彼らは、大学入学までは、親から「優秀」と認められてきたけど、親から離れると、承認してくれる人が少なかったのではなかったでしょうか。内心、大ショックだったでしょう。
つまり、「親から承認されたい欲求」が、親から離れて「誰かから承認されたい欲求」に置き換わったと推察します。その「誰か」に教祖がハマったのでしょう。

そういう意味では、とても未熟です。思春期に、社会経験を犠牲にして勉強ばかりしていたからです。


【のめり込む信者③(超能力願望)】
そもそも「超能力を得たい」という願望の奥底には、「遊びたい欲求を我慢したから、何でも得られるようになるはず」という認知バイアスも働いていたでしょう。

「いい大学に入ったけど、みんな優秀で更に競争しないと得られそうにない」から、「他のクラスメイトがやっていないことをやろう」「これをやれば差をつけられる」「何でも得られる」という密かな愉悦を想像していたのかも知れません。
万能感を獲得できるという妄想です。彼らはきっと認めないでしょうが。。。


【親の苦しみ】
次に、それまで愛情を注いだ親に着目すると、我が子の活動で苦しんだことは間違いありません。親自身が世間から冷たい目で見られ、人生を狂わされたことでしょう。
彼らは、自分を産み育ててくれた親を苦しめたことを反省しているのでしょうか。彼ら自身のためにも猛省してほしいです。それだけが洗脳を解く道だと思います。


【オカルト=魔界】
ここからしばらく脱線します。

それにしても、オカルト的な精神世界に入り込むと、人生が一気に没落します。この教訓を日本社会は大切にすべきでしょう。

例えば、座禅は一人で没入すると魔境に入ってしまうと言われています。精神世界は、魔界と紙一重であることを肝に銘じる必要があるでしょう。

現代のスピリチュアルとか、成功哲学(引き寄せの法則など)は危険ドラッグと同じだという認識が必要だと思います。これを信じている人たちはミニ・オウムだと自覚を持つべきです。


【敬神崇祖が日本の霊的文化】
脱線が続きます。

日本は、スピとは全く違う霊的なものを大切にしてきた文化があります。

私は「敬神崇祖」や「尊皇」という古来の「感謝」の精神文化を大切にしているつもりですが、その目から見れば、スピや成功哲学は、反吐が出るほど気持ち悪いものでしかありません。
なぜだか分かりませんが、腐ったものにウジ虫が湧いているような感覚にとらわれます。神社で感じる爽やかさとは明らかに真逆です。

スピ系も、神社をパワースポットだとか言って何かを得ようとして願掛けなどしていますが、全身にウジ虫を付けている連中には、ほんと境内に入らないでほしいです。
そういう連中は、後ろに参拝者が待っていても、何か真剣に祈っています。良縁とか金運とか欲望の実現なのでしょう。

神社でやって良いのは、感謝と誓約(決意)のみだと言われています。

数年前、家族で飯田橋にある東京大神宮という伊勢神宮の遥拝所に参拝したことがあります。東京でお伊勢さんの爽やかな空気に触れることができる、感謝と決意を新たにできると楽しみにしていました。

しかし、階段の下まで若い女性ばかりでおみくじも何種類もあるが恋愛ものばかり。そもそも神社の爽やかさを全く感じることができませんでした。むしろドロっとした気を感じました。ウジ虫をいっぱい落としていきやがったのでしょう。

「神から得る」というのは、ベクトルが反対です。古来、日本人は「神に感謝を捧げてきた」のです。
この神社の場合、参拝客におもねる神官の心がけも悪いと思います。商売か何かと勘違いしているのではないでしょうか。神官がすべきことは、神様に感謝を捧げること、参拝者が神様に感謝を捧げる環境を整えることだけのはずです。
スピ系ブームにやられたとしか思えませんでした。それも伊勢を遥拝するという大切な聖域で。。。

これ以来、この神社には参拝していません。二度と参拝するつもりもありません。
神田明神や湯島天神にも若干似たような印象を持ちましたが、東京大神宮よりはまだマシです。


【縄文からの「敬神崇祖」】
伏線込みの脱線です。

こうした現象を見ると、日本人は、何か大切な姿勢を失っているのではないでしょうか。

これは、後述するように1970年代後半から非日本的な文化が広まったために、何を大切にすべきか、後世に責任を持って渡すべきかが分からなくなったせいだと思います。
スピ系による汚染は、それを加速させます。しかも、現在進行形です。

別に、しがらみの多い農村共同体に戻れと言っているのではありませんし、私はそうした関係は嫌いです。面倒くさいです。

日本の精神文化は、このブログでも何度か触れているように、短く見ても縄文中期以来、六千年は続いている「敬神崇祖」という底流がありました。

○様々な恵みを与えてくれる自然やその背後におられる神々に感謝を捧げ、
○命をつないでくれた御先祖様たちにも感謝を捧げる、
というのが、縄文以来の日本人が大切にしてきたシンプルかつ世界でも稀有な精神文化です。

その精神文化の奥深さは、シナ文明圏と比べれば歴然としているでしょう。シナ文明圏は禿山だらけです。コリア半島に緑があるのは日本人が統治時代に植林したからです。

シナ文明などロジック重視の文明は理屈ばかりで底が浅いです。それは、グローバリストの文明も似たようなもので、「見える化」しての管理にこだわった結果、既に、破綻が見えています。

なぜもっと、日々の奇跡を起こしている日常的な自然とその背後にある神々に委ねようとしないのか。浅はかです。人間が出したものなどごく僅かです。

食糧だって、殆どが太陽と大地と大気と水と植物に備わる成長力が作ってくれたものです。人間が手を加えなくても植物は育ちますが、こうした自然の営みがなければ植物は育ちません。工場で農作物を育てても、同じことです。
こうした認識を根底に置いているのは、日本文明だけでしょう。


日本古来の「敬神崇祖」は、三千年前に水田稲作の農村ができ始めるより更に三千年以上も前からある精神文化です。それに比べれば、農村共同体は日が浅いですから、本質的ではありません。

農村文化を日本の本質だと捉えると、道を誤ります。農村から都市への流入に伴い、日本は多くのものを失いました。それは、日本の精神文化が農村と不即不離だと誤解してきたからではないでしょうか。

シュメール 文明やエジプト文明、インダス文明、シナ文明は、ほぼ縄文中期に始まった文明です。これらは、ロジック・知識、管理を原理にする文明です。

一方、日本文明は、どんなに遅くともこの時期に始まっていますが、その原理が上記の諸文明とは全く異なります。
ロジックや知識より感性、管理より感謝による変化を信頼してきた文明です。

文明原理が他の文明と違うので、一般的に、縄文時代に文明があったとは認識されていませんが、上述のように単に原理が違うだけです。

日本のこの文明原理は、歴史時代以降も日本の底流に流れます。
神道や武士道、茶の湯や禅、道の文化、和歌や俳句、それから、天皇制や武家政権の政治体制に至るまで、ロジックや管理よりも、感性や感謝を優先しています。

日本が外来文化を消化して変容させてきたのは、特殊な文明原理があったからです。

要は、文明は、大陸型文明と日本型文明に大別されると考えるべきでしょう。

そして、1970年代後半以降、この世界稀有の日本型文明を自ら壊そうとしてきたのが、当の日本人でした。

東日本大震災の後、特に若者あたりから古き良き日本文明が蘇りつつあるのではないかと感じます。
大震災後あたりから神社には心が清潔そうな若者が徐々に参拝し始めました。長々と参拝してませんし、木をベタベタ触ったりしませんから、スピ系ではなさそうです。

中年以上も参拝しますが、手水舎で手を洗って口をゆすぐ人は少数派でした。でも、最近中年層ではきちんと手水舎に寄る参拝者が増えてきました。
日本文明を破壊してきた世代、つまり年寄り層は殆ど全滅です。しかも、欲深そうな目つき。。拝殿の前で心に何を描いているのか。。感謝じゃなさそうです。
ちなみに、この世代が支持するのが立憲民主党です。アンチ安倍も多い世代です。


【1970年代後半からの享楽文化と日本の闇】

話を戻します。

脱線前は、信者個人や親に着目しましたが、次に社会に着目すると、教祖・信者という関係が成り立つ背景として、1970年代後半以降のオカルト・ブームを含む「日本の闇」を考えざるを得ません(http://s.webry.info/sp/66575033.at.webry.info/201806/article_10.html)。

オウムの背景となった雑誌ムーやオカルト系出版社は、この機に大いに反省すべきではないでしょうか。謝罪すべきではないかと思います。
大手メディアがお花畑を作ったのと同様、ムーなどがオウム信者を作ったのですから。


また、真面目な若者が精神世界に走った背景には、承認欲求と世間知らず、万能感獲得の妄想に加えて、享楽的なバブル文化への反感があると指摘されています。

つまり、70年代後半からの享楽とオウムは表裏一体です。

享楽文化は、
・家族などの価値を破壊する新左翼(大手メディアと旧社会党)と
・利権の自民党旧体制(角栄や小沢的なもの)
が、奇妙なコラボをしつつ形成したものです。それまでの日本的な価値を破壊しながら。。
「安倍おろし」に躍起になっていた勢力と一致するのではないでしょうか。

これが、当時の日本中枢の闇そのものでした。というか、「オウム事件当時の日本中枢は右も左も闇ばかり」と言えるかも知れません。

これら旧社会党や小沢グループなどは、旧民主党に流れ込みます。○○ホイホイのようなもので、オウム事件の原因となった闇が凝集された姿です。彼らは、闇の遺伝子を持つというべきか。。

「死刑執行」という、平成の大きな区切りを機に、1970年代後半以降、さらに90年代の新党ブームから急速に形成された「日本の闇」に今一度、思いを致すべきではないかと思います。

よく目を凝らすと、そこには、浅はかなグローバリストたちの影がチラホラと垣間見えるかも知れません。

日本中枢にあった闇からの脱却に取り組んでいる安倍政権下で、闇の一つの象徴だったオウム教祖らの死刑が執行されて、事件に一区切りがついたのは、偶然とは思えないです。

この記事へのコメント

kitutuki
2018年07月08日 04:44
おはようございます。
そういえば、西洋スピの霊界通信物では「死刑反対」と
高級霊団様方が言われておりましたな。
今、思うと、死刑になる因果を努力(悪事)して、本人
自ら望んで手に入れた結果であり、責任は本人の魂・
守護霊守護神の監督役の共同責任(霊界の責任も有り)
なハズですが、そこに言及せず、人間界全体の責任み
たいなレッテルで死刑にせず愛で矯正とかムチャぶり
を主張するのが気持ち悪い所です。
不思議譚の古神道物では、大罪犯した(やっちゃった)
人間はこの世で極刑受けてた方が、あの世で多少罪に
対する神罰がマシになるとマトモな意見でした。
ちなみに、この世で完全犯罪やりとげるとか罰受けて
ない場合はあの世の神罰が加算されて凄くヤバイこと
になるそうです(罪人本人が)
2018年07月09日 18:58
ありがとうこざいます。
深いご見識、腑に落ちました。たしかに、この世での罰が軽いとあの世で更に大変になりそうです。

この記事へのトラックバック