里山と縄文

見落とされがちですが、「里山」というのは採集文化の舞台です。

農村では、材木、薪、キノコ、カヤ、ヨシなどを採集する場所として「里山」を管理してきました。管理することで、鬱蒼とした森になることを防ぎ、木漏れ日が適度に差し込んで下草が生える、多様な生の空間となりました。

そうすることで、「里山」は、湧き水の魚類、各種の昆虫類、鳥類などが身近な食物連鎖と再生の妙を見せてくれる「自然」を感じ、学ぶ場にもなりました。

また、山の手付かずの自然(神の領域)→里山の自然→家の庭→縁側(ウチソトが曖昧)→家の内側と、グラデーションを持って、「自然と人間が共生する」という発想を形にしてきたのが、農村・農家の原風景だと思います。

こうした視点は、「農耕民族が渡来して列島全体に広まり、縄文人を駆逐した」という従来の歴史観からは浮かび上がってこない見方だと思います。

農耕民族というのは、人間の好きなように自然に手を入れるという発想を根底に持っています。自然は人間が食糧等の必要物資を獲得するための加工対象に過ぎません。
典型は農地開墾であり、これは森林を根こそぎ伐採するということです。

シナ文明圏の農民は、シナでもコリアでも山を禿げさせました。燃料となる森林を伐採した一方、植林しませんでした。一面の禿山です。
これは、一向に収まる気配のないシナの環境破壊と通底するものです。ちなみに、コリア半島では、日本統治時代に山に植林を行い、緑を復活させました。
一方、日本では、江戸時代に大規模な農地開拓が行われますが、同時に植林も大いに行なっています。シナ文明圏とは全く逆です。

日本文明の典型は、伊勢遷宮に使う材木を切り出す際に、木に感謝を捧げる儀式です。これは熊を射止めた時にカムイに感謝を捧げるイオマンテという儀式を行うアイヌ文化と根底は全く同じものです。
自然と神をほぼ同一視し、恵みを与えてくれる神に感謝を捧げるという精神文化です。

この精神文化は「里山」に通じます。「里山」は身近に自然という神を感じる空間だったと考えられます。

たなつもの ももの木草も あまてらす日の大神の めぐみ得てこそ(本居宣長)

「たなつもの」とは、農作物のことですから「ももの木草」というのは、農作物以外の植物資源ですから、「里山」から頂く資源をイメージしているのだと考えられます。もちろん感謝の和歌です。


自然を敬いながら共生し、その恵みをありがたく頂くという日本の農民に顕著な傾向は、アイヌ同様、彼らが縄文文化を受け継いでいるからだと考えられます。

ちなみに、縄文人も畑作をしていたというのは、既に証明されている事実です。つまり、農耕と狩猟採集をミックスさせながら、多様な自然資源を活用していたのが縄文人です。
典型的なのは三内丸山遺跡の栗林であり、品種の揃った栗を管理栽培していたことが科学的に明らかにされています。このクリは材木として巨大な木柱にも使用されました。
また、ヒエやマメを栽培していたとの研究もあります。

ここに、栗林などの「里山」とセットの農耕の原型があるように思います。なお、三内丸山は栗林の消滅とともに消滅します。


意外なことですが、「里山」を深く研究すれば、もう少し縄文人の姿が見えてくるのではないかと直感します。逆もまた真なりで、縄文時代を深く研究すれば、「里山」に潜む深い精神文化が浮かび上がるようにも思います。

今のところは、私が持っている材料が乏しいので、以上のような直感・予感の類となりますことをご容赦ください。

ちなみに、三内丸山は5500年前から4000年前まで栄えた縄文集落で500人程度が定住していたと推定されています。
これは、シナ黄河文明(ヤンシャオ文化)の初期である半坡遺跡とほぼ同規模であり、シナの方を「黄河文明」と呼ぶならば、三内丸山遺跡も「縄文文明」と呼ぶべきです。
シナの方はたかだか6000年前ですが、三内丸山遺跡を包含する「縄文文明」は、世界最古の土器が1万6000年前であり、この時代、文明らしいものは日本列島にしませんでした。

「里山」とは、世界最古の文明の名残りと捉えるべきではないかと思います。

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