継体天皇と磐井の乱(浮かび上がる大陸「不」介入路線)

継体天皇と磐井の乱(浮かび上がる大陸不介入路線)

継体天皇は、高句麗と近い関係にありますが、これは高句麗と敵対していた半島倭人・九州倭人ではない勢力であったため、高句麗が擦り寄ったと考えられます。
ただ、以下のことを考えると、関係はほどほどにしたのではないでしょうか。

応神天皇系の御世は、大陸的統治の力の統治だったようです。その結果、日本の中央政界は殺伐とし、乾燥した布に火をつけるのと同じように、いつ火がついてもおかしくない状況に陥ってしまったようです。

応神天皇系王朝で、権勢を誇っていたのは、半島・九州倭人であり、畿内倭人からすると新参者ですし、神武東征を支えた天皇の随伴氏族である大伴氏などは、1世紀余の間、とても苦々しく思っていたと思います。

その大伴氏の当主である大伴金村氏が、武烈天皇の後の皇統断絶をいい口実に、本来の本州倭人、畿内倭人の政治風土を取り戻そうとしたのが、継体天皇を担ぎ出したのが、継体天皇即位の真相ではなかったかと思います。
大伴氏に代表される随伴氏族は、相当熟慮して、殺伐とした政治風土の根っこに何があるかを探求したと思います。そして、殺伐の由来が、竹内宿禰系氏族(葛城氏、平群氏、紀氏、蘇我氏、巨勢氏ら)という、半島・九州倭人が権勢だという点に常に落ち着いたと思います。
彼らは日本文明的ではなく、大陸国家の、力を信奉する政治文化を引きずってきました。随伴氏族は、それでは日本は治められないということにかなり早い時期から気づいていたようです。それは、神功皇后の起こしたクーデタの時からかもしれませんし、クーデタ当時は愚痴の塊だったのが、時を経るに従って、政権の在り方に本質的な違和感を感じ始め、確信になったことでしょう。

大伴氏らは、最初は、応神天皇系の前の仲哀天皇の子孫に、次の天皇になっていただけるかを打診したことになっています。しかし、応神天皇系の力の政治、恐怖政治が5世代も続くと萎縮と懐疑が先に立ち、逃げてしまったそうです。野心を持っている人たちを見つけ出して狩るのが目的だと勘違いした訳です。
そこで白羽の矢が立ったのが、ヲホド王という名前の、当時北陸にいた継体天皇です。応神天皇の子孫の中でも継体天皇は、大陸との関係は政治的・軍事的介入ではなく、交易重視だったようです。ヲホド王は、交易で随分と富を蓄えていたようです。この富も、事を成そうとする時の軍資金として魅力的だった事でしょう。

この人選と、それまでの殺伐政治などを見ると、大伴金村氏が成そうとしたのは、大陸と距離を置く政治だったと思います。
それにより、半島情勢に左右されない軸のある日本を取り戻したかったのでしょうし、大陸と距離を置く結果として畿内豪族の秩序回復を図ろうとしたんだろうと思います。
こう考えると、大伴金村氏は相当豪胆な政治家で、かつ日本文明と天皇制の大恩人だと思います。同じ大伴家から、万葉集の大伴家持氏が生まれたのも宜なるかなと感じます。

継体天皇は即位されましたが、ただ、当時は豪族の秩序が乱れ、天皇の地位も祭祀からくる権威(みたまのふゆ)から離れていましたので、下剋上の風潮があり、継体天皇は終生、相当御苦労されたのだと思います。
畿内倭人系も含めて豪族が気ままに振る舞うのが日常で、言ってみれば、当時の朝廷は室町幕府のようなものだったと推測できます。

継体天皇が即位されてから、大陸政策の大胆な路線転換が図られたと思います。
応神天皇系王朝(倭の五王)では既定路線だった、高句麗敵視・半島南部の韓族国家への援助という路線を少なくとも天皇は捨て去られたようです。大陸と距離を置き、経済を中心に関与するという路線です。

その結果、日本の援軍が来ないと判断した新羅が任那を取りに来たようです。それが西暦6世紀の新羅の躍進の背景です。
なお、この新羅による任那切り取りは、後に大伴金村氏が責任追及される背景にもなりました。

ここで忘れてはならないのが、任那救援軍を筑紫君磐井が拒否した事件です。
この磐井の主張は、継体天皇の対外路線を深く理解していたことを伺わせます。記紀ではなぜか、天皇の意向に反して磐井が拒否をしたことになっていますが、私は縷々述べてきたことから、磐井の乱は、大陸と距離を置く継体天皇の方針に沿うためだったと考えます。磐井は継体天皇と心を同じくしていたのに、物部氏が天皇の命を捏造したのではないかという視点で見ると、違う見え方がしてきます(この点、説得力ある論にするには、更に探求が必要だと思いますが。)。

そもそも物部氏は百済でも豪族になっており(記紀の欽明朝の記述)、大陸介入派に属しています。半島・九州倭人ではないですが、この動乱を使って、半島・九州倭人の利権を奪おうとしたのではないかと思います。

物部麁鹿火が磐井の乱を平定する頃、物部氏に筑紫以西の統治が委任されるという大事件が起こります。

物部氏は継体天皇を担ぎ出した一人ですが、それは物部氏が半島・九州倭人ではなく、かつ、その財力や兵力が必要だったから、大伴金村氏が引き入れたのだと思います。天皇の随伴氏族である大伴氏の誠実さとは違い、物部氏はダークな面が色濃くあったのだと思います。

この筑紫以西の統治委任は、二つの利点を物部氏にもたらします。
一つは、九州倭人に権勢振るう権限です。相当の覚悟は必要ですが、九州倭人の領地を召し上げるということも可能だったかもしれません。
もう一つは、大陸介入を進める権限です。これは、継体天皇の御意志に反して、大陸介入路線を走れるということです。百済に領地のあった物部氏にとっては大陸は大事です。
こうなると、物部氏の暴走を止める者はいないということになります。
先程の九州倭人への支配権は、後に九州倭人の蘇我氏と争う淵源になったと思われます。

本来、日本文明の根幹である神道に近いはずの物部氏が、時代の転換点も見極められずに、大陸介入路線に傾いたのは、立場の私物化であり、欲に目が眩んだとしか言いようがないと思います。この点、この氏族が内包している矛盾です。

この時代の日本の政治に問われたのは、大陸のために日本の国力を使うのか?日本人の血を流すのか?ということだったと思います。そして、大陸介入は誰の利益になるのか?ということでもあります。
継体天皇や磐井、大伴金村氏らは、この辺りが冷静に見れていた数少ない政治家だったと思います。
他の豪族は、欲に目が眩んだ人たちばかりでしょう。

こうした日本の状況変化を認識し、新羅は独力で安全保障を確保する路線へと転換していったと考えられます。つまり、日本依存から脱却です。おそらく、新羅国内にも、いつまで安全保障を日本に頼るのかという人たちがいたのでしょう。西暦6世紀のこの時代はまだ、チャイナは南北に分裂しており、唐の力を借りて三国統一をするのは、まだ1世紀以上も先の話です。
一時的にとはいえ、コリア人が他国依存から脱却した数少ない例として、この時代の新羅は貴重な存在です。おそらく、王家の血筋ですら倭人比率が高かったため、倭人的な気概が残っていたのでしょう。

一方、そうできなかったのが百済です。
半島倭人・九州倭人系の蘇我氏や、百済に領地を得て半島・九州倭人の行動パターンに染まった物部氏が、時流を読めずに旧態依然の支援を行いました。百済もそれに甘え、自立の機会を失ってしまいました。

新羅と百済は、日本の大陸介入政策が転換される継体天皇の時代の過ごし方がまるで正反対であり、それが約1世紀後の両国の明暗をくっきりと分けたと思います。

蘇我氏が権勢を振るう欽明朝から、大陸介入路線が復活しています。
「幸い」なことに、日本は失地を回復しませんでしたが、おそらく蘇我氏は、百済を支援することにより、何らかの見返りを得ていたと考えられます。

これが、蘇我専横の背景です。
つまり、応神天皇系の王朝がやった大陸への積極介入政策を復活させるのが、蘇我氏の路線だったのです。その時、新羅は自立していたので、自立できない百済一辺倒で介入したのです。

蘇我氏は、天皇位の簒奪まで企図するという越えてはならない一線を越えてしまいます。 これは、応神天皇系で起こった、豪族が天皇と覇を争うという、まるで日本的ではない現象が起こった訳です。

こうした蘇我氏の専横に対し、中大兄皇子は皇室の危機を感じて蘇我氏本家を滅ぼしますが、皇子は結局のところ、百済贔屓であり、斉明天皇の摂政時代に、滅亡した百済を復興させるために白村江の戦いだ唐・新羅連合軍を出して、大敗してしまいます。
中大兄皇子は、単に蘇我氏の百済利権を皇室に取り込んだだけで、大陸的な覇道の君主を目指した、つまり、応神天皇系王朝と似て、発想の転換ができなかったのではないでしょうか。

なお、蘇我氏や中大兄皇子を狂わせた百済利権というものが一体何であったのかは、もう少し研究してみないとよく分かりません。もしかすると、百済の領地からの年貢などがあったのかもしれません。
ならば、百済支援は国益のためではなく、私益のためと言えると思います。

一方、天武天皇は、日本文明を強く意識し、大陸と距離を置きます。天武天皇、持統天皇と続き、その後の数代の天皇は、日本文明を意識し、古事記、万葉集を編纂し、外国向けの日本の歴史書を神代から始めています。
ようやくこの時代に、継体天皇や大伴金村氏、磐井の目指した大陸「不」介入路線が確かなものになります。と言っても、任那も滅び、百済も滅んでは、介入しようがない訳ですが。。。

なお、以前の記事に書きましたように、唐の成立と半島介入の前に、日本が半島の足掛かりとなる任那を失っていたのは、日本と日本文明と天皇制にとって、非常にラッキーなことでした。
このきっかけを作った大伴金村氏は、実は国魂の心を分かっていた歴史上稀有な政治家だったのかもしれません。

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