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zoom RSS 法華経とキリスト教(イスラエル的信仰)

<<   作成日時 : 2011/04/25 22:09   >>

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法華経とキリスト教には共通点が多いように感じます。

まず舞台ですが、キリスト教では山上の説教を重んじますが、釈迦は法華経を霊鷲山(りょうじゅせん)という山の上で行ったとされています。(実際の霊鷲山では、法華経で主張する人数を収容するのは全く不可能です。)
両方に、
・迫害を受けながらも相手を愛し、許す
・陰徳を積む(目立って善を為すのではなく、人に知られず善を為す)
・迫害を受けることを徳を積む行為とする
という思想が流れています。
また、法華経で出てくる菩薩たちは、釈迦の現世の弟子ではなく、過去世の弟子という設定になっています。

法華経信仰で有名なのは日蓮ですが、日蓮は、初期キリスト教とと同様に、大いに迫害を受けました。
それは、キリスト教の精神が、法華経に流れ込んでいるからではないかと見ることもできるのではないかと思います。
クリスチャンが日蓮の生涯を研究すれば、そこにもっと共通点を見出すことはできるのではないでしょうか。

法華経の成立は、紀元1世紀と言われていますが、キリストの弟子のトマスはインドで殉教したとされており、インドにはトマスの布教活動を立証する数々の証拠があるそうです。
インドとイスラエルは古来から交流があり、ソロモン王の時代のタルシシ船という貿易船では、インドから様々な物資が運ばれたことは歴史的な事実だそうです。また、時代はソロモン王からくだり、アレキサンダー大王の遠征によって、インドの西側はオリエント世界に組み込まれましたし、南インドのケララ州あたりには、ローマなどの船舶が常に停泊していたそうです。
キリストの死後、弟子たちは当時の世界各地、ギリシア・ローマ世界、小アジア(現トルコ)、ペルシャなどに布教しましたが、そうした布教活動の一つにインドもありました。

信仰のためには殉教までするキリスト教徒の迫力は、純粋に各地の人々の心を打ったらしく、各地でキリスト教徒が拡大したようです。インドでも、順調に信者が増えたようです。
そうした状況に危惧したバラモン教の信者によって、トマスは槍で刺されて殉教したという伝承が残っています。

仏教サイドでも、このキリスト教徒の爆発的な勢いに危惧したらしく、それが法華経を始めとした大乗仏教の成立につながったという説があり、私もそうではないかと思います。
そうだとすれば、大乗仏教の教説と言われるものの中に大量にキリスト教精神(イスラエル的なもの)が混入しているということです。

中国に仏教が入ってから、中国人の悩みは仏典の多さでした。とにかく多すぎます。
そこで、智慧に優れた天台大師というお坊さんが、仏典を5つに分類しました。
まずは、衆生のレベルを知るために大乗教である華厳経を説き、その後、小乗教から順次始めて、大乗教へ、さらには法華経を説いた、つまり「法華経は仏典の王様だ」という整理をしました。
これは、当時の社会情勢(隋唐の統一)というのも反映し、仏説もきちんと論理の城に統一したいという欲求のなせる業でした。日本の仏教界は最澄が天台宗をもたらして以来、比叡山の天台宗を最高峰としてきました。それだけ、「法華経が頂点だ
」という天台の整理は優れていた訳です。

でも、法華経がキリスト精神によって成立したものだとすれば…。
とても面白い事実が浮かび上がってきます。
釈迦の教えは、キリストの教えと共通点も多い上、釈迦の教えの指し示すものがキリストの教えだという事実です。
もっと端的に言えば、当時の仏教徒は、キリストの弟子によって初めて、釈迦の教えを鮮明に知ることができたと言うべきでしょうか。釈迦の教えの矛盾点なども、絶対的な善なる存在、天国の存在を介在させてみれば、ようやく落ち着くところに落ち着いた、つまり、仏教はキリストの出現によって初めて完結したと言うことができるでしょう。

一言で言えば、当時の東アジア世界に広がった大乗仏教というのは、実はイスラエル民族のキリスト教が変形したものであるということです。イスラエル民族の信仰は、大乗仏教世界にも影響を与えたということになります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、大乗仏教、神道と、世界の宗教の殆どをイスラエル由来の信仰がカバーしていることになります。

また、日本人である日蓮は、その法華経のエッセンスを取り出して、結局キリストのような迫害をものともしない生き方をしましたが、これも古代イスラエル民族の流れをくむ運命の遺伝子のなせる業でしょうか。言ってみれば、仏教に仕込まれたイスラエル的精神が、イスラエルの流れをくむ日本で爆発したということになるでしょうか。

宮沢賢治は、日蓮の信奉者で法華経の信者ですが、彼の有名な「雨にも負けず」のモデルは、キリスト教徒だったそうです。文芸家特有のセンスで、法華経とキリストの教えの共通点を洞察したと言うことができるかも知れません。

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内 容 ニックネーム/日時
はじめまして。
興味深く拝見しました。
最近のイスラムテロリストを見ていると、かつての創価学会に似ていることに気が付き、数年前から思いをいたしてまいりました。
素晴らしい教祖の御前で殉死するという精神はキリスト教、仏教にかかわらず、戦前の大本教などにもその事例があります。あのころは大本教でも相当人を惹きつけるものがあったらしく、大本事件でも殉教者がたくさんでました。
これは宗教だけではなく、帝国主義時代の日本、天皇崇拝、赤穂浪士、明治維新、企業殉死・・・・・
結局はナニが人を惹きつけるのか、という問題に落ち着くと思います。
法華経はシンプルなお題目を何百回、何千回唱え、イスラム教は一日に五回もの礼拝をおこない、だいたい決まった祈りをおこなう。
どちらも同じことをずっとやる(強制される)ということがこの場合の両者における着目点ではないでしょうか。
アラーと法華経典を讃え続けるという点においては我欲を入れる隙間が減ってきて、あるいは催眠的になってくるのでは、と思っています。
日本におけるムスリムの人たちは、酒を飲んだり祈りを減らしたり、だんだんルーズになってくるそうです。
そのせいか?テロリストが育つ土壌ではないような感じを受けますね。
宮沢賢二は非常に厳しい生活環境を生きた人でした。
だからこそ天国を目指すというようなキリスト教的独自信仰があったのでしょう。
さて、恵まれすぎたる我々はいかにして恵まれた環境に負けることなく信仰を貫くことが、人生においては大切なことではなかろうかと思います。
Makakaraten
2017/02/04 10:55

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