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zoom RSS サンカが上古日本の形成の鍵だった?

<<   作成日時 : 2018/06/02 23:17   >>

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かつて、日本の山々にはサンカと呼ばれる人たちがいました。
「山窩」と書かれることが多いですが、「窩」とは、穴や窪みの意味で、彼らを人間扱いしているのかと疑いたくなる当て字です。
彼らは窪みにではなく、テントを張って住んでいたと報告されていますから、単に、農家、漁家などと並ぶ「山家」だったと考えるのが自然だろうと思います。つまり、「山に糧を得ている人たち」という程の意味です。

これまで殆ど語られなかった「異界」を覗いてみたいと思います。


【サンカは山間部の縄文系】

例えば、古事記にも登場する吉野国栖(よしのくず)は、サンカの名門だそうです。他にもヤオモリという名門もいるそうです。
これらの一族は、皇室に川魚、葛、栗、キノコなどを献上していました(「サンカ研究」田中勝也)。

その献上品から見ても、縄文時代そのままの純朴な人たちと言うべきでしょう。
他には、マムシ(タジヒ)を獲ったり、山守をしたり、中には、祭祀に使う大麻を栽培したりと様々でした。

彼らは、自分たちの祖先が天皇と関わったという伝承をいくつも残しており、その内容は古事記とも整合するものが多いです(同書)。
詳しくは同書をお読みください。古事記外伝とも言うべき伝承群です。


「縄文人を弥生人が征圧し、
弥生人の抗争を勝ち抜いて天皇が支配を確立した」
という、間違いしかない教科書的な理解では、このサンカの「尊皇」志向は説明がつかないと考えられます。

現代人が持つ遺伝子の最大グループが縄文系であることが物語るように、縄文人が弥生人に駆逐されたというのは全くの妄想です。現代に至るまで、縄文系は日本人の主流です。

縄文人の多くは水田稲作に適応し、いわゆる弥生人となりました。

一方で、水田稲作に適応しなかったか、縄文的な生活スタイルを好んで維持した人たちも、少数派ながらいたことと考えられます。
特に、中山間地域や海辺など水田稲作に適さない土地に住み、狩猟採集の生活スタイルで糧を得られた人たちは、何も好きこのんで、一年で八十八回も手間をかける水田稲作に移行する理由はなかったでしょう。
こうした人たちのうち、山間部に住んでいた人たちがサンカの祖先の主流であろうと考えられます。

つまり、里人もサンカも、生活スタイルが違いますが、いずれも縄文人の末裔です。混血度は少々異なり、里人には半分程度、長江系の血が混じっていますが。。。

「縄文人と弥生人は異民族同士ではない。長江系との多少の混血はあったが、ベースは縄文人」という上古史観で見ないと間違います。征服者と被征服者ではありません。

サンカに被征服者というイメージを押し付けて妙なノスタルジーを感じるのは間違いです。

また天皇の統治を諸外国の征服者のそれと同じだと勝手に想像しても、真実の歴史は何も導き出せません。

大和朝廷による統合は、世界史上稀に見るほど戦争の少ない統合だったと言うべきです。
・考古学的には3世紀半ばから、日本各地に前方後円墳が一気に広まります。
・同じ頃、卑弥呼が立って一気に平和になったとシナの史書に記されています。
・日本の史書にも、ヤマトタケルが「天皇の霊威(みたまのふゆ)」を背景に各地を「言向け和」したと書いています。
これらはほぼ同じ時代のことを書いています。

上古の日本統一について、葉室頼昭氏(春日大社元宮司)は、天皇が様々な部族の祭祀をまとめて行うことで共生に成功した世界的に稀有の例という趣旨のことを書いておられます。


(注1)約六千年前に縄文畑作をしていたことは科学的に立証されています。縄文農民は、弥生時代以降も農民を続けたと考えるのが自然です。

(注2)サンカ社会には上古農民などが流れ込んできた可能性はあります。以前のブログ記事で書いたウエツフミなどは、この系統かも知れません。


【サンカは尊皇】

サンカと天皇の関係は、初代の神武天皇に遡ります。
先述の吉野国栖(くず)は、神武天皇が大和入りする際に、酒を献上して歌を歌ったとされています。アイヌのユーカリのような歌舞でしょうか。その後も天皇に川魚や栗などを献上しています。

古事記のこの伝承は、天皇家が水田稲作民だけでなく、縄文以来の生活を送る人たちをもシラス存在であることを象徴的に物語っています。

脱線ですが、「シラス」とは「弱い人々の立場に寄り添う」という天皇特有の統治姿勢で、天皇制を考える際に必要な基本概念です。明治憲法を起草した井上毅は、国のかたちを考えるに際し、神経衰弱になるほど真剣にこの「シラス」を深く考察しました。それほどの基本概念です。
「シラス」の統治姿勢は、国民を「大御宝」と呼ぶことと共通します。
先の神武天皇の逸話は、農耕社会から取り残されたかに見える国栖も「大御宝」だということを明確に示されたいいエピソードです。

欧米流に言えば「基本的人権の尊重」「天賦の人権」です。欧米より千五百年近く前に、日本の統治に導入されています。
元々の日本文明と親和性が高かったから日本は近代文明を取り入れたのです。シナやコリアが今でもなかなか取り入れられないのと比較すれば、この点すぐ分かると思います。
まるで戦前日本が日本の原型であったかのように錯覚する人が、左翼ばかりか保守にもいますが、何も分かってないです。戦前日本は共産国家化した化け物です。あんなもの、日本ではありません。

被支配者を私物化するシナや北朝鮮の「ウシハク」と対極的です。
「シラス」の語源は、知らせる、つまり、暗い所から明るいところに引き出すという意味ではないかと思います。であれば、五箇条の御誓文の「人心をして倦(う)まざらしめん」という明治精神とも共通してきます。

神武天皇の御名は「ハツクニ『シラス』 スメラミコト」です。

話を戻します。
吉野国栖と向き合われた神武天皇は、縄文的な土着性をそのまま受容したのです。そこには教化や王化という、シナ文明的な傲慢さは感じられません。
むしろ、吉野国栖の淳朴さを愛されたことが行間から伝わってきます。また、吉野国栖の方もその淳朴さゆえに、神武天皇の崇高さを直感していたのかも知れません。

神武天皇のこの包容力は、土着性を維持する人たちには衝撃的だったことでしょう。ナガスネヒコや大国主命の統治はウシハク、つまり被支配者の私物化でしたから。。

(注)古史古伝(殆ど偽書)の研究家の中には、「出雲王国やナガスネヒコの王国を天孫族が侵略した」と反天皇制的な主張する者もいますが、大間違いです。圧倒的多数の被支配者の立場から見たら、ウシハクよりシラスがいいに決まっています。


サンカの尊皇志向は、ここに始まったと言えます。

脱線ですが、我が国では、学生運動の頃から、サンカは漂泊の民で、反体制だとか、支配を拒んだだとかという勝手なイメージが作り上げられますが、彼らサンカがバリバリの尊皇であるという決定的な事実を見落としています。
自分たちが組織に属することを嫌がるモラトリアム志向であるがゆえに、漂泊を礼賛した無責任で逃避的な思考が作り出した妄想と言うべきです。今の無責任野党にそのエッセンスを見る思いです。

話を戻します。
天皇は御代を重ねますが、サンカ特有の職能で、山の幸を採集したり、マムシを獲ったり、山を守ったりして、皇室との関係を築いています。


【乱裁道宗(サンカのネットワークと統領)】

時代は下り、摂関時代。
伝承では摂関家の藤原道隆(953〜995)の隠し子が丹波の山中に捨てられ、サンカの最高位の乱裁道宗(アヤタチミチムネ)となったと伝えられます。俄かには信じがたいことながら、臣下たちが慕って付き従ったとされています。
これ以降、サンカ社会は緩やかな秩序を形成したとされます。そのネットワークの鍵として、男子は13歳になった時、2年間、丹波で修行を積むこととされました(同書)。

その武技には、軽身の術、暗中を行く術、攻め手を防ぐ術、攻めの術、投げ手の術、秘密連絡の術、隠身の術など忍術が含まれています。忍者はサンカの出身と言われます。(同書)


農耕社会であれば、13歳からの2年間を家内労働から手放すのは痛手ですが、何しろ狩猟採集を主とする生活スタイルですから、2年間の修行で家族を離れることは十分あり得たことではないでしょうか。
むしろ、他地域のサンカたちとネットワークを形成したり、様々な生活の知恵や技術、武術を身に付けて帰ってくるのは心強く、ありがたいことだったと考えられます。


【崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇と国魂】

問題は、本当にアヤタチミチムネを頂点とするネットワークが形成されたのが、10世紀の平安中期だったかということです。

これは、かなり疑問だと思います。
そもそも臣下が平安中期の優美な生活、豊かな食事を打ち捨てて、山奥に入るものでしょうか。まず女性は絶対嫌がるに違いありません。平安貴族の男性は女性の尻を追いかけていましたから、何を好きこのんで、男臭い山奥に。。。
たまたまとても人望がある隠し子で、無欲の家臣がいたなど奇跡が重なった可能性までは否定しません。
ただ、隠し子なのになぜ家臣がいたのかは大いに謎ですが。。。


むしろ気になるのは、祭祀改革によって天皇制を確立された崇神・垂仁の両天皇の頃、この丹波地方が皇妃を輩出していることです。

既にこの崇神・垂仁天皇の御代には、サンカ社会のネットワークがあり、その頂点と婚姻関係を結ぶことで、山を親大和にするという戦略があったのかも知れません。


しかし、天皇家は戦略が得意ですが、それほど打算的だったのか。。。国内勢力図だけではなく、もっと天皇家の存在意義に関わる気高い目的があったと推察します。

そこで思い当たるのが、この両天皇の御代は祭祀改革が行われた時代だったということです。これは、太古からのこの国の仕組みに関わります。

後述するように、垂仁天皇の次の景行天皇までの流れを見ると、垂仁天皇の丹波との婚姻関係は、縄文由来の祭祀集団(白山信仰)(注)と関係があるのではないかと直感します。

(注)直前のブログ記事で、白山信仰を共通して持つ被差別民は王朝時代は神聖視された特殊職能民で、その先祖は縄文時代の白山由来の祭祀集団だと推論しました(被差別民が古代は神聖視されていたというのは、網野善彦氏の研究です。)。


以下、まず関係することを整理します(敬語略)。

○垂仁后である「日葉酢媛命」の父「丹波道主命」は、名前の通り丹波の人です。

○丹波出身の日葉酢媛命の子が天皇に即位します(景行天皇)。垂仁天皇は、それほど丹波を重視していました。

○垂仁朝にとって、祭祀改革の鍵である25回程度の伊勢遷宮の最初が丹波の「籠(この)神社」です。

(なお、籠神社の神官の家系から、卑弥呼と台与が出たとの研究があります。)

○また、籠神社は、内宮(天照大神)だけでなく、伊勢の外宮(豊受大神)の由来地でもあり、極めて特別な神社です。したがって、皇后の父 丹波道主命は、籠神社と深い関係があると考えるのが自然です。

○籠神社のすぐ南の「大江山」は、サンカ研究の田中勝也氏が「乱裁道宗の本拠地」と推論しています。

○乱裁道宗(別名:乱裁丹波)と丹波道主は名前が酷似しています。

○乱裁道宗の本拠地が籠神社の大江山だとすれば、尚更、籠神社と関係の濃い丹波道主命は古代の乱裁道宗だったと推論してもおかしくありません。

●景行天皇は、即位して数年後、不思議なことに、美濃の「くくり宮」(岐阜県可児市)に宮を移します。

●この「くくり宮」は、白山神社の祭神「くくり姫」に由来すると考えられます。

●伊勢遷宮の最終的な落ち着き先は、今の伊勢神宮ですが、「くくり宮」は伊勢神宮と白山のちょうど中間点で、同宮の設定は白山を意識したと考えられます。

●直前ブログで書いたように、縄文由来の祭祀集団は白山信仰と考えられます(←被差別民は白山信仰)。

●彼ら祭祀職能民を朝廷が神聖視したのは、国津神祭祀の基底を担っていたからと考えられます。

●景行天皇は「くくり宮」で八坂入姫と結婚し、その子が天皇に即位します(成務天皇)。

○●こうして、天皇家に丹波と白山の血が入りました。

○●景行天皇の御代、ヤマトタケル尊が天皇の「霊威(みたまのふゆ)」により、九州から東国までを統一します。

以上、○は丹波に関すること、●は白山に関することに便宜的に付しました。

こうして並べてみると、
@丹波(籠神社・大江山)と婚姻関係を結んだことから発し、やがて白山祭祀集団との婚姻関係に行き着きます。
Aまた、同時並行で、25回程度の伊勢遷宮が行われました。

@丹波→白山、A伊勢遷宮は、それぞれ@国津神系、A天津神系の祭祀改革の一環です。

この時期に活躍したのが卑弥呼であり、倭姫命です。
両者は同一人物で、日本列島の霊的な仕組みを洞察していた偉大な霊能者だった可能性があります。
あるいは、天孫降臨を完成させる神意で、偉大な霊能者が立て続けに出現したのかも知れません。日本は不思議な国ですから、そのくらいのことは起こるのかも知れません。


そして、縄文由来の白山祭祀集団との強固な結合を果たした天皇家は、まるで太古からの国魂の許可が降りたかの如く、景行天皇の時代に一気に日本列島の統合を果たします。

それを実行したのが、ヤマトタケル尊です。

丹波(籠神社・大江山)は、その長い道のりの入口の役割を果たしました。


この壮大な神霊的な国家建設のビジョンを描いたのが、卑弥呼又は倭姫命だと考えられます。「描いた」というより、「見せられた」と言うべきかも知れません。

卑弥呼の直前の時代のことをシナの史書は、「倭国大いに乱れ、こもごも攻伐し、歴年、主なし」と記しており、不思議なことに、卑弥呼の時代に急に平和になったと記しています。その手法は鬼道、つまり霊的な方法だと記されています。

「倭国大いに乱れ」に相当する記事として、記紀でも垂仁天皇の父君である崇神天皇の御代に疫病が流行って国民の半数が死に、反乱も起こるなど国内が乱れ、そのために祭祀改革に着手したことが記されています。

ですので、大まかに言えば、
・崇神天皇の御代が倭国大乱の時代
・その次の垂仁天皇の御代が卑弥呼の時代
と比定できると思います。


話は変わります。
卑弥呼の時代の日本がシナに名乗った国名は「ヤマト(邪馬台)」であり、明らかに「山」を意識しています。

私は、これが昔から不思議でなりませんでした。水田稲作の国なのに、なぜ山なのかがどうしても分かりませんでした。

水田稲作の国に相応しい豊葦原瑞穂国(トヨアシハラノミズホノクニ)という立派な名称があるにもかかわらず、葦原国でも瑞穂国でもなく、ヤマトです。(ちなみに、大祓祝詞には「オオ『ヤマト』ヒタカミノクニ」が出てきます。)

当時の朝廷が、いかに「山」に敬意を払っていたかがうかがえます。

考えてみれば、日本の国土の殆どは「山」であり、サンカの先祖の山縄文人は、山々と付き合い、山々に愛されてきた存在です。
その人たちを大切にするということは、日本の国魂を大切にすることと直結します。
当時の大和朝廷が天皇を始めとして選んだ道は、国魂に愛される道だったと言えます。

神武天皇が吉野国栖を愛されたというのも、直感的に正しい道を選択されたんだと思います。外国の王朝創始者とは一味違います。


話をかなり前に戻します。
丹波と白山は遠く離れています。しかし、先述の垂仁天皇→景行天皇の流れを見ると、息がぴったり合っているようです。
それは、山民のネットワークが存在したからだと考えられます。サンカ・ネットワークです。

そして、このサンカ・ネットワークの頂点に立つのが丹波道主命(上古の乱裁道宗)だと考えられます。


つまり、サンカ社会とそのリーダー丹波道主命(乱裁道宗)は、白山集団と天皇家を仲介することにより、上古の統一国家形成に決定的な役割を果たしたのではないかと考えます。

また、乱裁道宗は、遥か上古には既に存在していたと考えられます。

では何故、先述の「摂関家の隠し子伝承」が生まれたのでしょうか。

それは、中世の頃から、出自を貴人に結びつけないと侮られるような風潮が社会に広がったからではないかと考えます。

全く真実を何も含んでいないかと言えば、
藤原道隆が隠し子を山中に捨てるきっかけが疫病の流行だった点は、
先述の、崇神天皇の御代の疫病が大流行を契機とした祭祀改革のゆえに、サンカが天皇家と結びついた点
を反映していると言えなくもありません。

これは、その後も続く日本の裏の仕組みなので正面から言えない事情があったのと、これは貴種伝承ではないので、「疫病契機」というコアを残して、中世以降に創作したのかも知れません。

また、上述から、サンカは被差別民と同じく白山信仰であった可能性が高いです。尊皇かつ白山信仰です。

直前のブログ記事で、白山祭祀集団を重視して、彼らの神話であるイザナギ・イザナミ神話を皇祖神神話の前に置いたと述べました。理由は、同神話が、陰陽思想が色濃い点、イザナミ神の生死両面性(釣手土器)、くくり姫が出現する点などからです。

丹波の籠神社でもイザナギ・イザナミ神話があります。

イザナギ神が天からハシゴを伝って籠神社のイザナミ神に逢いに来ていたが、そのハシゴが倒れて天橋立になったという神話です。
古事記に記される、天御柱を回って両神がまぐわったという伝承を想起させますし、縄文の巨柱信仰(三内丸山などの縄文遺跡、諏訪の御柱祭)とも通じます。
ただ、古事記ほど深遠高尚ではなく、昔話風ではあります。

脱線ですが、イザナミ神は黄泉の国を治めます。白山祭祀集団が日常の里人とも関係を持っていたのは、葬送に彼らが関わらないと上手くあの世に旅立てないという考えがあったのかも知れません。


【中世以降】

彼らは、元々、自給に近い生活を送ってきたわけですので、王朝社会の崩壊によって生活が特段苦しくなるわけではありません。
白山祭祀集団が被差別民に転落していったのと、ここで明暗がはっきりと分かれます。

一言で言えば、サンカとは、「中世の社会変革に呑み込まれず、古代さながらの伝承を大切にしてきた人たち」と考えられます。その伝承は天皇と結びつくことが多いです。

中世以降に、里社会は長い時間をかけて大きく変容したので、古代さながらの価値観を大切にするサンカは、何か変わった人たちのように見られます。

しかし、サンカが古代の常識を維持してきた人たちと考えれば、里社会とサンカ社会の接触は、タイムマシンで中世社会(近世社会)と古代社会の人たちが接触するようなものです。貨幣経済に馴染み出した中世以降の人たちの方がスレています。

中世以降は王朝が衰退する時代です。
白山祭祀集団と同じく、サンカも、その意義は祭祀を重視する王朝時代には深く理解されていましたが、それ以降は、里人から忌避される存在になったと考えられます。
農民にとっては、自分たちと生活スタイルが異なる存在は、所詮は「異界」の者でしかありませんでした。

一方で、よき理解者だった王朝人(特に皇室)は財力の衰えとともに統治への発言力も衰えます。それゆえに、サンカは、日本の統治システムから遊離した存在になってしまったと考えられます。

そうした中でも、サンカは引き続き尊皇的な伝承を大切に語り継ぎます。律儀というべきです。

また、おそらく縄文時代から続いていたネットワークは、そのまま維持されたようです。皇室との結びつきも引き続きあったのではないかと思います。
(情報が走るネットワークは、近代以降、サンカが社会に溶け込む中でどうなったのでしょうか。また、乱裁道宗はどこに行ったのでしょうか。。)


【源義経】

義経は牛若丸と言われた幼い頃、鞍馬山中で忍術のような技を身につけます。
先述のとおり、サンカは13歳で丹波山中で修行しますが、修行することの中には忍術も入っています。

牛若丸はサンカに育てられたのでしょう。牛若丸の母である常盤御前がサンカの出だったのではないでしょうか。

義経はその後も、東北の金売り吉次を介して奥州藤原氏と繋がります。これも、サンカ・ネットワークと考えられます。

義経の血の半分がサンカだとすれば、サンカ社会にとっても義経はホープだったと考えられます。金売り吉次の存在を考えれば、サンカ社会全体では意外に豊かだったのかも知れません。

サンカ・ネットワークは独立した情報網でもありますから、義経は、全国の情報にも通じていたと考えられます。

だとすれば、義経追討の際も、サンカ・ネットワークを伝って逃亡したのでしょう。
そのまま北海道まで逃げたという説も、アイヌに伝承が残っているなど説得力があります。
サンカ・ネットワークは国境をはみ出て蝦夷アイヌまで繋がっていた可能性があります。縄文時代は繋がって交易していたわけですから。

源義経が天下を取っていたら、農民中心の中世ではなく、サンカ中心になった可能性があります。
頼朝が本当に恐怖を感じたのは、義経軍の見せた戦闘力の高さではなかったかと思います。身体能力が非常に高く、肝も座っていて、本気で戦闘すれば武士は敵わないと感じたことでしょう。


【箕作り、忍者、旅芸人、大名、天下人】

このサンカ社会は、近代に至るまで、一般的には自給自足を基盤とし、必要な時に箕や笊を里人に売っていたと報告されています。

中世後期になると、その高い身体能力を使って忍者や、口伝伝承の記憶力を生かして旅芸人、傀儡子などに身を転じ、里社会の周辺異界に身を置く者も出てきます。

これは、接する里社会の変化(戦国時代)に応じてサンカ社会が多様化したのだと捉えるのが妥当だろうと考えます。つまり、取り巻く里社会の変化から完全に独立することは難しかったということです。

サンカ社会の中にも、里社会と同様に、戦国時代という流動的な社会の中で志を立てる個人や一族が出現したということです。

さらに、そうした戦国ドリームとも言うべき空気の中から、斎藤道三、豊臣秀吉、蜂須賀一族、服部半蔵などの歴史上の人物が出現します。

秀吉は天下を取るや、人身売買を禁止しますが、それは知人が人身売買されるような環境で育ったためという説があります。また、彼はキリシタンの奴隷貿易に激怒し、これが伴天連追放令の原因になったと言われています。

なお、彼らは、全国的なサンカの情報ネットワークを持っていて、それが彼らがのし上がっていくための財産だったと考えられます。


【明治以降】

明治期に約20万人いたという説もありますが、彼らも戸籍登録が義務付けられたことにより、徐々に里に溶け込んでいきます。
元々、古代から尊皇の人たちですから、天皇を戴く明治社会に溶け込むことに異論はなかったでしょう。このため、スムーズに溶け込み(里化)が進んだのだと考えられます。

では、彼らサンカの末裔は今どこにいるのでしょうか。
彼らが里人との関わりでは箕や笊などの日用品を扱っていたことからすれば、かな笊などを扱う金物屋になったと考えるのがごく自然です。

金物屋の移動形態である竿竹屋は実のところは情報屋と言われます。戦国時代に情報屋(忍者)に転じたサンカとの共通性を感じることができます。

何の根拠もありませんが、情報を求めて動き回る探偵や興信所、公安の中にもサンカ社会に出自のある人がいるように思います。また、昭和の昔なら漂泊の旅芸人一座の中にもいたのではと思います。

ただ、乱裁道宗やその周囲の高位サンカがいたはずですし、彼らはネットワークの中核だったわけです。特殊な情報網を掌握していました。
彼らの後裔はどこにいるのでしょうか。

戸籍のない生活をして義務教育を免れ、特殊な帝王教育を受け、ネットワークを利用して、日本社会に裏から影響を与えている。
と想像すると、五木寛之氏の「風の王国」など小説や都市伝説の題材としては面白いでしょう。

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米朝首脳会談直前の6月11(月)に放送された青山繁晴氏の「虎ノ門ニュース」の動画をアップしておく。 ...続きを見る
風林火山
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