大祓の国

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zoom RSS 中世史、古代史、縄文史(王朝社会の崩壊と武家、被差別民、白山信仰、サンカ、縄文

<<   作成日時 : 2018/05/30 01:05   >>

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【短期集中的な社会変革】
日本のように歴史の長い国であれば、
・あるジャンルの人たち(例えば、明治期の士族)が没落し、
・別のジャンルの人たち(例えば、明治期の政治家や官僚、民間企業)が興隆する
ような「社会変革」を何度か繰り返してきました。

明治期は、短期間でこの「社会変革」が達成されました。
律令制の導入期は、どこから起算するかは様々な考えがあり得ます。大化改新以降とすると、「社会変革」は比較的短期間でした。

いずれも、天皇又は皇族を中心として変革が為されました。明治期は明治天皇、律令制導入期は天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇です。

日本の変革期として、よく例に挙げられるのは、この二つの時期です。いずれも、国防上の危機が認識され、これに対応するためにシステムを大きく変革して、当時の国際社会の先進国化を目指しました。


【中世前期の社会変革】
一方、日本の社会変革期は、これ以外にもあります。その典型例は鎌倉時代から始まる中世です。

中世の前期においては、荘園貴族が徐々に没落し、開発農民である武家が興隆しました。

鎌倉幕府という体制が作られながらも、意外にもシステム改革は殆ど為されず、律令制は形骸化しながらも遺されました。

システム上は、征夷大将軍の下の体制を幕府として充実させ、地方組織として守護・地頭を置くという追加型の改正を行ったのでした。

しかし、農業生産が富の中心であるがゆえに農地が経済活動の基盤である社会において、「土地係争の裁定権を幕府が掌握する」ことによって、幕府が実質的な権力を把握しました。実権を掌握し、律令制を形骸化します。

システムの根底からの変革ではなかったのは、そうするだけの正統性(legitimacy)を幕府が持っていなかったことに由来すると考えられます。
その正統性とは、日本社会では「天皇」です。この点が明らかに、明治期や律令制導入期と異なるところです。

このため、承久の乱が起こります。

正統性を保有する側が、保有しないが実権を掌握する側に戦いを挑んだのでした。
一応は、国家を統治するのは「正統性」なのか、「実権」なのかの争いでした。今の歴史教科書では、そのように教えています。

そして、「正統性」の側が敗北します。「実権」の側が勝利したから、幕府は自己規律なく何でもやりたい放題だと言わんばかりです。

「正統性」が敗北したのは、二つの理由が挙げられます。

一つは、幕府成立の前に、武家出身の平家が律令制の高位高官を独占し、朝廷の実権を掌握していたことです。このため、幕府の成立は「武家同士の戦い」という擬制が成り立ちました。
もう一つ、これが重要なのですが、律令制の中央集権政治によって、開発農民が搾取され、律令制が「正当性(justness)」を失っていたことです。このため、幕府成立の二百年以上も前に、平将門が坂東武者を率いて反乱を起こします。


【正統性 対 正当性】
ここで、同じ時期に瀬戸内海では海賊・藤原純友が乱を起こしますが、平家も富の基盤は日宋貿易などの海上交易で、瀬戸内海に軸足があったことは興味深いです。

つまり、
・「藤原純友の乱」の精神を継承したのが、後の平家、
・「平将門の乱」の精神を継承したのが、後の源氏
と言えます。


10世紀半ばの二大反乱で顕在化した律令社会の「正当性」の綻びは是正されず、摂関全盛期と院政という中央集権の爛熟期を迎えます。

そして、その爛熟期が翳りを見せた頃に、
・前者は、新勢力による中央権力の掌握に見られるように、「正統性」を重視したのに対し、
・後者は、建前は中央集権でいながら、より「正当性」が成り立つような変革を行い、中央集権下で軽視されてきた「正当性」を高めようとした、
と一応は整理できると考えられます。

すなわち、幕府は「正統性」こそなかったものの、朝廷(貴族)よりも「正当性」があったということです。

このように整理すると、先程の承久の乱の本質は「正統性」と「正当性」の争いであり、この争いに「正当性」が勝利を収めたと言えます。ここが日本の中世を考える上で、決定的に重要です。

この「正統性」と「正当性」の争いは室町時代にも続き、後醍醐天皇と足利尊氏の争いを経て、南北朝の争いに発展します。
つまりは、後醍醐天皇は「承久の乱のやり直し」をしたと言えます。
しかし、倒幕後の貴族重視・武家軽視の論功行賞に象徴されるように、後醍醐天皇は「正当性」を軽視していたと考えざるを得ません。

これが収束したのは、ようやく足利義満の14世紀末ですから、鎌倉幕府の成立から二百年も争われたことになります。

私は、こうしたことを大真面目にやった先人に、日本人として感謝しています。

シナやコリアでは、こうした真面目なプロセスを経ず、国家統治には「正統性(皇帝)」だけが必要であって、「正当性」への疑問はにべもなく一刀両断されてきました。彼らの歴史を要約するとそうなります。

これを尤もらしく体系化したのが朱子学であり、現実から乖離した思弁(詭弁の類)を経て、「正統性の淵源たる皇帝がおっしゃることが即ち正当性あることだ」ということにしてしまいます。要は「皇帝が白を黒といえば、白は白でなく黒となる」ということです。

これが、(歴史捏造を含む)事実歪曲を平気でやり、権力者の都合で人権を蹂躙するシナ文明圏の基盤になります。尤も、その淵源は夏王朝からありましたが。。
後醍醐天皇が依拠した宋学とは、この朱子学のことです。


【シナと異なる日本】
中世前期の日本で「正当性」が勝利したのは、鎌倉幕府や室町幕府を担った人たちが天才的に優秀だったからではなく、これまで何度もこのブログで取り上げてきたように、天皇の統治の理想が「シラス」だからです。

国民は天皇の「大御宝(おおみたから)」とされ、最も弱い立場の人たちに寄り添うことこそが、天皇統治の理想とされました。

それゆえ、シナ文明と違って、実質的な「正当性」が大真面目に争われ、税を徴収される開発農民に近い鎌倉幕府と室町幕府が「正当性」を実現すると考える妥当性があったわけです。

なお、日本の承久の乱とイギリスのマグナカルタは、ほぼ同時期であり、いずれも被徴税側による「正当性」の主張が通ったという点で共通します。
未来の歴史教科書では、承久の乱とマグナカルタを並べて教えているかも知れません。「正統性」を前にたじろぐ御家人を前に幕府の「正当性」を訴えた北条政子の大演説をこうした文脈で教えるべきでしょう。

今の教科書のように鎌倉幕府の成立を「武家の台頭(つまり力)」という一点だけで教えるのは皮相的で、限界があると考えます。
むしろ、そのために、日本がシナ文明とは全く異なる一方で、イギリスとは共通点があることを考えるいい機会を手放しているのが残念です。

いずれにせよ、中世前期には、正当性を失った荘園貴族は没落し、正当性を味方に付けた武家が興隆します。


【中世後期の社会変革】
中世後期には、中世前期の変革が波及して副次的な変化が生まれた時代でした。

変革者なき変革です。
中世前期の変革や、律令制導入期、明治期の変革は、明確な変革者がいて、一定のビジョンに基づいて行われた変革です。
しかし、中世後期は社会そのものが変革者と言わざるを得ない変革がダラダラと続きました。

【武家の相続の変容】
武家に関しては、鎌倉時代の始めの頃は、分割相続と言って、子供の数だけ土地を分割して相続していました。それだけ広大な土地を所有していたから可能な相続方法でした。

しかし、分割が繰り返されるにつれ、当然、相続できる土地が狭くなるわけですから、時代が下ると家督を相続する子を決め、この子が総取りすることになりました。他の子たちはこの家督相続した兄弟の手下になるわけです。

このため、当然、争いは苛烈になってきます。南北朝の争いが長引いた背景には、先述した「正統性」と「正当性」の争いの他に、武家のこうした相続事情がありました。

農民も似たり寄ったりの事情であり、しかも兵農分離されていませんでしたから、土地の争いが兵器を使った合戦の様相を呈することもあったと思います。

豊臣秀吉の兵農分離は、こうした農民だか武士だか分からない人たちの土地争いに起因した戦争を収束させるのに有効だったと思います。


【特殊職能民→被差別民という変容】
以上が里の変容ですが、中世の社会変容は、里だけではありません。むしろ、里も里以外も社会がジワジワと変わっていった時代です。

この変容のある部分は、網野善彦氏がその炯眼をもって明らかにしています。

つまり、それまでの王朝社会では神聖視されてきた特殊な職能民、例えば神社の下請けの仕事をする人たちや天皇陵の墓守、葬送に携わる人たちが、被差別民に転じていくという変容が起こりました。被差別民の発生プロセスです。

(注)動物を解体して、その皮を加工するなどの職能も、神からの何らかの赦しが必要で神社との関係が生じやすいのではなかったかと思います。あるいは、後述するように、縄文の狩猟文化の名残りである可能性もあります。縄文色の濃いアイヌでは狩猟した熊をまず神に捧げて感謝するなど、生き物の命を奪う狩猟と神信仰は密接に関わります。


特殊職能民の被差別民化は、おそらく荘園領主の没落に起因していると考えられます。
王朝社会では、特定の祭祀文化を成り立たせるために必要な彼ら特殊職能民に対し、神社仏閣や皇室、貴族が一定の収入を保証してきたと考えられます。
しかし、スポンサーである荘園領主が没落するにつれ、その財源がなくなります。

彼ら特殊職能民は、祭祀を重視する王朝社会と直接の結びつきで収入が保証された存在でしたから、一般の農民社会との直接的な結びつきは未発達であり、農民側からは、特殊な存在として忌避されるようになったと考えられます。

忌避されるだけでなく、職能民側は一定の収入を得る必要がありますから、農民社会との取引が必要です。神社仏閣の仕事は彼ら特殊職能民が牛耳っているのですから、冠婚葬祭に際して、農民側も、彼らと取引をする必要があります。
この取引に合理的な値段の設定は難しいです。そう豊かではない農民側が、そもそも異質な生活スタイルを持つ彼らを虐げたことは想像に難くありません。

こうして、荘園領主の没落は、彼らに従属していた職能民の地位低下ももたらしました。

つまり、彼らの職能は変わらなかったのですが、彼らを取り巻く社会・経済が変わったので、被差別民になってしまったのだと考えられます。

なお、特殊職能の異界の中でも、能や芝居などに携わって成功したグループもいます。


【王朝社会の崩壊スピードと被差別民発生の有無】
これら職能民は、中世以降も里の近隣で生業を立てる中で、王朝社会の崩壊によって、その社会的地位が変わってしまったのだと考えられます。

普通の生活スタイルと違う→(古代)神聖と見られた→(中世)差別対象と見られた、ということです。


ただ、王朝社会の崩壊は東日本では鎌倉幕府の成立で速やかに進行しました。
一方で、西日本では旧来の王朝社会が継続したとされています。つまり、鎌倉時代の西日本では荘園領主は当分健在だったわけですから、職能民も当分は健在だったと考えられます。しかし、室町時代には西日本でも王朝社会が崩壊します。
このことと、西日本の方が遥かに差別がキツいこととは、何らかの関係があるように思います。

おそらく、東日本は王朝崩壊が急だったので、彼ら職能民の仕事を代替する新興層が発生したのではないかと思います。
例えば、葬儀は鎌倉仏教の広まりによって寺院と檀家が協力する、結婚も神社と氏子が協力するという形が形成されていき、村落共同体内で受け持つことによって、特殊職能民が殆ど不要になっていった可能性があります。

一方、西日本では荘園領主は二百年以上かけて徐々に衰退したので、特殊職能民が温存され、その結果、上述のような差別が起こったのかも知れません。あるいは、西日本では村落共同体が未熟だったのかもしれません。

この点は、もう少し吟味する必要がありますが、中世以降の王朝社会の崩壊スピードの差と被差別民の形成には、何らかの関係があるのではないかと思います。

以上は、主として神社仏閣に関係する特殊職能民の被差別化です。彼らの有する特殊職能は、里人にとって人生で何度か必要でありつつ、祭祀と関係する特殊なものだったというのが特徴的です。


【白山信仰と縄文】
被差別民には白山信仰が残っていると言われています(「河原巻物の世界」脇田修)。
各地の被差別民が共通して白山信仰であり、かつ彼らが元々は神社の特殊職能民であったことにかんがみれば、おそらく神社信仰の初期を担っていたのが、彼ら被差別民の先祖であると考えられます。

つまり、神社信仰の基層には、彼ら職能民の白山信仰があると考えられます。
その上に何層かの新しい信仰がオンされてきたのではないかと考えます。例えば、秦氏による洗練とか、天武天皇による道教的要素の追加とか。

とすれば、彼ら職能民(被差別民)は、縄文又は弥生時代以来の信仰をベースにしていたのだろうと考えられます。

つまり、白山信仰は、縄文又は弥生時代に遡るくらい太古から続いてきたということです。
また、その被差別民は、生死、日月、男女、昼夜、長短といった陰陽論的な世界観を有していた、と言われています(同書)。

これなどきっと縄文由来ではないかと思います。

というのは、約5千〜4千年前の縄文中期、表は優しい女性(おそらく妊婦)で、裏は恐ろしい髑髏というイザナミ神話的な釣手土器という土器が出土するからです(田中基「縄文のヴィーナス」)。生と死は裏腹一体という思想が基盤にあったと考えられます。

また、縄文家屋の内部も、入り口から見て炉を挟んで左右のいずれか片側は男性用、もう片側は女性用として使われたとの興味深い研究もあります。男女どちらが偉いというわけではないところも、イザナギ・イザナミ神話と通ずるものがあります。これも、縄文的な陰陽思想の表れと捉えられます。

ちなみに脱線ですが、入り口から見て一番奥は祭祀用スペースです。また、炉石は引っ越しのたびに持って行ったらしく、本土、沖縄、アイヌに共通する火の神信仰がうかがえます。

つまり、祭祀の基層を支えた特殊職能民(後の被差別民)は縄文以来の信仰文化を継承してきた人たちだと考えられます。
だとすると、彼らが持つ白山信仰も縄文由来と考えられます。

念のためですが、縄文人の末裔には、縄文人→特殊職能民→被差別民という線だけがあったのではありません。このブログでも何度か述べたように、現代日本人の遺伝子中で最大のグループは縄文人の遺伝子であることは科学的に立証されています。

つまり、農民社会も、その多くが縄文人の末裔で構成されているということです。半島から渡来した弥生人なる異民族が縄文人を駆逐したというのは、科学的には否定されている誤りです。歴史教科書が修正されないのは怠慢です。

むしろ、
○縄文人の末裔が特殊職能民になり、神社信仰を支えてきた
○彼らは、陰陽思想、白山信仰を持っていた
○一般の人々(縄文人の末裔)が白山信仰を持っているという伝承は全く聞かない
ということから、
○縄文時代から特殊職能民が全国の祭祀で重要な役割を果たしていたのではないか、
という仮説が成り立ちます。

七年に一度の諏訪の御柱祭などの巨大な祭りは縄文時代からあったと考えられます。これは近隣のいくつもの集落が共同しないと開催できない祭りであることは明らかです。(ちなみに、諏訪大社も上下社、春秋というように陰陽思想を残しています。)

つまり、縄文時代の大祭は広域エリアで行われたと考えられます。

そうだとすれば、祭祀を担う特殊集団が存在していた可能性は十分あり得ます。そして、上述のことと重ね合わせると、この特殊集団が陰陽思想と白山信仰を持っていたのではないかと考えられます。
白山から離れた場所で白山信仰が発生するはずがありませんから、彼らは元々、白山周辺にいた人々で、白山を根拠地として全国各地の祭祀に携わったと考えられます。

縄文の特殊集団(白山由来)→(古代)特殊職能民→(中世)被差別民という流れです。

ということは、縄文時代の白山は、歴史時代の伊勢や熊野のような存在だったのではないかと考えられます。

また、天皇を頂点とする大和朝廷は、この白山由来の特殊集団と何かしらの協力関係を樹立し、特殊職能民として取り込むことで、日本列島の祭祀的な支配権を確立していったとも考えられます。

彼らの信仰は、イザナギ・イザナミ神話に反映されていると思います。
天の御柱を巡った夫婦が相和して日本列島という国土を生み、火山を生んでイザナミ神がみまかり、黄泉の国をイザナギ神が探訪し、妻の姿を見て怒りを買い、呪的逃走で最終的に桃を投げて黄泉比良坂を千引の岩で防ぎ、生死の両界に線引きをした、というのが、イザナギ・イザナミ神話です。
この時、菊理姫(くくりひめ)という神が出現して夫婦神を和解させたとされています。

この菊理姫が祀られているのが白山神社です。いかにも白山由来の特殊集団が関与した神話という感があります。

縄文の特殊集団(白山由来)→イザナギ・イザナミ神話→締めは白山神社の祭神(菊理姫)です。

古事記では、この神話を実質的に冒頭に持ってきて、両神を「皇祖神の親神」という、これ以上にない高い位置付けにしています。

(注)古事記だけだと、イザナギ神の禊から天照大神やスサノオ尊が生まれたことになっていますが、スサノオ尊は「母親」であるイザナミ神を慕って泣いてばかりいたとされています。また、近江の湖東地方にある多賀大社では両神を祀り、「お多賀、お伊勢の親なるぞ」として、両神を天照大神の両親としています。

つまり、縄文の特殊集団と大和朝廷は祭祀・神話面で深く結びつき、大和朝廷は彼らを畏怖していたと想像されます。
そこに、網野善彦氏の発見「被差別民(特殊職能民)は、実は古代においては『神聖視』されていた」ということの淵源が存していると考えられます。

「神の国」と形容される日本という国の奥深さを感じます。

縄文思想風に陰陽で言えば、
・天皇は陽、特殊職能民は陰、
・天照大神は陽、イザナギ・イザナミ両神は陰、
・天津神は陽、国津神は陰、
・伊勢は陽、白山は陰、
・歴史時代は陽、縄文弥生時代は陰、
で、日本を霊的に蘇生させるには、両方が必要だということです。

両者の協力関係は、天皇の即位の淵源ですから、神武天皇の時に大まかなことが決まり、祭祀改革をした崇神・垂仁両天皇(卑弥呼の時代)でほぼ確定したのではないかと思います。
垂仁天皇の後を継いだ景行天皇は、一時期、白山の麓の美濃に宮を置いて、多くの婚姻関係を結んでいます。
その景行天皇の御代にヤマトタケル尊が「天皇の霊威(みたまのふゆ)」によって、日本列島の大半を大和朝廷に帰属させます。縄文色の濃かった東国や南九州などもこの時期に帰属します。裏では特殊集団が働いたのかも知れません。なお、考古学的には前方後円墳が急激に広まった時代と考えられます。


【サンカ】
一方、王朝社会の崩壊に伴って、皇室に献上する鮎を漁るなどの職能民の場合はどうでしょうか。

漁師になった人たちも当然いたと思います。しかし、「先祖が皇室に献上してきた」という誇りを大切にする家系の中には、皇室の名を傷つけないために下手なことはやらずに自給自足の生活を選んだ人たちもいただろうと思います。例えば、古事記にも登場する吉野国栖(よしのくず)はこうした誇りを持った一族です。
川魚の他には、皇室に葛、栗、キノコなどを献上しています。縄文時代そのままの純朴な人たちと言うべきでしょう(「サンカ研究」田中勝也)。

これら皇室に食材を献上した一族は、サンカの名門とされています(同書)。つまり、先程まで述べてきた冠婚葬祭などの特殊職能民と違い、これらの人々はサンカです。

彼らは、元々、自給に近い生活を送ってきたわけですので、王朝社会の崩壊によって生活が特段苦しくなるわけではありません。

サンカ伝承には、「皇室との関係」を物語るものが多く、かつ古事記の記述とも類似性が高い場合が多いです。
他には、神社に納める大麻を栽培していた人たちなど様々な職業を持っています。あるいは、蝮部、山守など古代の部民などもいます(同書)。

一言で言えば、サンカとは、「中世の社会変革に呑み込まれず、古代さながらの伝承を大切にしてきた人たち」と考えられます。その伝承は天皇と結びつくことが多いです。

(注)学生運動が華やかな頃、「漂泊」がもてはやされて、サンカを「反体制の漂泊民」として偶像化した人々がいます(カムイ伝の白土三平など)。しかし、当のサンカは、バリバリの尊皇です。

中世以降に、里社会は長い時間をかけて大きく変容したので、古代さながらの価値観を大切にするサンカは、何か変わった人たちのように見られます。
しかし、サンカが古代の常識を維持してきた人たちと考えれば、里社会とサンカ社会の接触は、タイムマシンで中世社会(近世社会)と古代社会の人たちが接触するようなものです。貨幣経済に馴染み出した中世以降の人たちの方がスレています。

サンカ伝承では、丹波にアヤタチミチムネというサンカ社会の最高位の人がいて、緩やかな秩序があり、例えば、全国のサンカ男子は13歳になると丹波に2年間修行に行くそうです。
このアヤタチミチムネは、摂関家の隠し子で事情があって山に捨てられたとされています。ここでも、王朝とのつながりが強調されます(同書)。

彼らサンカ社会は、朝廷から搾取されたわけではありませんから、朝廷の「正当性」が揺らぐことはなかったのだと考えられます。

このサンカ社会は、近代に至るまで、一般的には自給自足を基盤とし、必要な時に箕や笊を里人に売っていたと報告されています。

中世後期になると、その高い身体能力を使って忍者や、口伝伝承の記憶力を生かして旅芸人、傀儡子などに身を転じ、里社会の周辺異界に身を置く者も出てきます。

これは、サンカ社会に元々、忍者がいたのではなく、接する里社会の変化(戦国時代)に応じてサンカ社会が多様化したのだと捉えるのが妥当だろうと考えます。
サンカ社会の中にも、里社会と同様に、戦国時代という流動的な社会の中で志を立てる個人や一族が出現したということです。

さらに、そうした戦国ドリームとも言うべき空気の中から、斎藤道三、豊臣秀吉、蜂須賀一族、服部半蔵などの歴史上の人物が出現します。

秀吉は天下を取るや、人身売買を禁止しますが、それは知人が人身売買されるような環境で育ったためという説があります。また、彼はキリシタンの奴隷貿易に激怒し、これが伴天連追放令の原因になったと言われています。

なお、彼らは、全国的なサンカの情報ネットワークを持っていて、それが彼らがのし上がっていくための財産だったと考えられます。


明治期に約20万人いたという説もありますが、彼らも戸籍登録が義務付けられたことにより、徐々に里に溶け込んでいきます。
元々、古代から尊皇の人たちですから、天皇を戴く明治社会に溶け込むことに異論はなかったでしょう。このため、スムーズに溶け込み(里化)が進んだのだと考えられます。

では、彼らサンカの末裔は今どこにいるのでしょうか。
彼らが里人との関わりでは箕や笊などの日用品を扱っていたことからすれば、かな笊などを扱う金物屋になったと考えるのがごく自然です。

金物屋の移動形態である竿竹屋は実のところは情報屋と言われます。戦国時代に情報屋(忍者)に転じたサンカとの共通性を感じることができます。

何の根拠もありませんが、情報を求めて動き回る探偵や興信所、公安の中にもサンカ社会に出自のある人がいるように思います。また、昭和の昔なら漂泊の旅芸人一座の中にもいたのではと思います。

【被差別民とサンカと縄文】
以上、簡単にまとめると、武家(農民)の台頭によって王朝社会が崩壊していく過程で、
・神社仏閣と関係の深い特殊職能民(縄文由来で白山信仰の特殊集団)は被差別民化していった。
・中には能や芝居の人たちのように成功した職能民もいた。
・それ以外の里でない人々は古代伝承(尊皇)を守りつつサンカと呼ばれるようになった。
・社会が流動化した戦国時代には、サンカの中から忍者や戦国大名、天下人まで現れた。


先述の通り、日本人の遺伝子で圧倒的に多いのは縄文人由来の遺伝子です。
縄文人は、長江文明人が水田稲作を携えてやってきた時、その多くが水田稲作を学んで農民になりました。我々が日本の歴史としてイメージするのは、この農民が関わる里の歴史です。

一方で、農民にならなかった縄文人も少なからずいました。それが、上述してきた特殊職能民やサンカです。
彼らは我々と異質な存在ではなく、先祖を同じくする人々です。むしろ、かなり純粋に日本列島に古くから住む先祖の血を残していると考えられます。

さらに、被差別民とされてしまった特殊職能民は、縄文時代の祭祀を司った特殊集団として、世界最古の縄文文明の中枢を担っていた人たちの末裔である可能性があります。

ただし、戦後の被差別民は、金を得るためにゴネたり、ヤクザになったり、コリアンとつるんで反日やったり、性根が歪んでしまっており、表面的には殆どコリアンと似た行動をしているのは、極めて残念です。

先祖のことを知らないがゆえに、先祖に誇りを持てない現代の彼らに、世界最古文明の中枢を担っていた片鱗を感じるのはちょっと難しいことではあります。。
しかし、上述の推論が正しければ、彼らの遺伝子には確実に世界最古の文明を仕切った祭祀エリートの遺伝子が残っているはずです。表層の喧騒が消え、その遺伝子が発現するのはいつでしょうか。夜明けの晩?


(注)なお、このブログでも過去に何度か取り上げましたが、皇族や中臣氏(藤原氏)、斎部氏、秦氏、賀茂氏などは、長江文明人ではなく、里帰りした縄文人とも言うべき古代イスラエル人である可能性が十分あります。トンデモ説ではありますが、当のユダヤ人、しかも日本に長年住んでいた教養高いラビ(祭司)が指摘するくらいです。

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