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zoom RSS 古代史(「日本国は倭国の別種なり」との旧唐書記述の意味)

<<   作成日時 : 2018/05/18 22:39   >>

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旧唐書では、倭国条と日本国条を分け、日本国条に「日本国は倭国の別種」と記載しています。
そして、倭国を日本国が併呑したのだとか、倭国がその国名が悪いので改めたとかの説を紹介した上で、日本の使者が尊大なので真相はよく分からんと書いています。

謎とされるこの記述は、後述するように、
「朝貢していたのは倭で、日本は違う」
という外交方針が基本だと考えるのが自然だろうと思います。

聖徳太子が「日出処の天子」の書を送ったのは華夷思想に毒されていた当時のアジア諸国の外交では、極めて独創的なことで異彩を放っています。

聖徳太子後の日本は、蘇我氏の専横があり、大化改新があって、天智天皇の専制政治、壬申の乱という紆余曲折を経て、天武天皇の国づくりへと辿り着きます。

蘇我氏など竹内宿禰系の諸氏族(葛城氏、平群氏、紀氏、羽多氏など)は、元々は朝鮮半島南部の産鉄地に権益を有していた九州倭人出身で、少なからず大陸文化に染まっていました。

彼らが朝廷を専横したのは「倭の五王」の時代であり、半島での有利な状況をつくるためにシナの王朝に朝貢していました。紀元5世紀のことです。御代で言えば、応神天皇から武烈天皇までの時代です。

不思議な神意か、大和朝廷は、ここで皇統がいったん途絶えるという危機に直面します。
そこで、神武天皇以来の天皇の随伴氏族であった大伴氏や神武天皇に服従したニギハヤヒ尊の末裔である物部氏を中心に、皇統の危機打開のため、応神天皇の六世孫と言われるヲホド王を越後から招き即位いただきます。継体天皇です。
ここで、日本は九州倭人 vs 非九州倭人の内乱状態に陥ります。

九州倭人と距離のあった継体天皇からの三代の御代を契機として、日本は百済に半島南部の領土を割譲するなどして半島から撤退していきます。紀元6世紀前半のことです。

この時代、日本の中国地方で採鉄できるようになるなど、鉄に関する状況が大きな変化を見せたことも、日本の半島撤退の背景にあったと考えられます。

その後の欽明天皇の御代から、九州倭人である蘇我氏が息を吹き返します。蘇我氏は、半島との関係を重視し、半島南部の倭人や百済人の技術者を囲い込み、シナ文明的な危い政治を復活させます。その最たるものが天皇からの禅譲を画策する許し難き行為であり、これがため、大化改新が起こり、蘇我本宗家は滅びます。

蘇我氏の専横の中で咲いた大輪の花が聖徳太子であり、太子のお陰で日本は、先述のアジア外交史に残る外交の大革命をやってのけました。

しかし、太子の死後、大化改新後もその遺志は継がれなかったようです。648年にも使者を送ったという記事があります。倭国の使者の記事は、これが最後です。

専制独裁だった天智天皇の死後、思うところのあった大海人皇子が壬申の乱を起こし、天下を取ります。天武天皇です。

この天武天皇こそが「倭国の別種」記事のキーマンです。

明治維新に喩えられるよいに、外来文化を積極的に取り入れつつも日本独自の文明を重視する風潮(和魂漢才)をつくられた偉大な天武天皇は、聖徳太子の独創に強く共感されたと考えられます。
様々な事績を辿ると、天武天皇は「シナの皇帝など日の没するところの天子に過ぎない」と強く意識されたと考えられます。また、「日本は神代から連綿と続く由緒正しき国なのだ」ということも意識しておられたようです。
なお、天武天皇と強い絆で結ばれた皇后の持統天皇も同じで、伊勢神宮の式年遷宮を始められたのは持統天皇です。


天武天皇と持統天皇の子孫である天武系皇統の御代で編纂された古事記(国内向け)や日本書紀(外国向け)では、日本の歴史は神代から始まりますが、これこそが日本の敬神文明では欠かせない歴史観でした。
唐の馬の骨皇帝とは全く違うという誇りも感じられます。天皇家は、神代から連綿と続く皇統だと対外的にも明らかにしています。

シナの宋代には、シナ皇帝が、日本の天皇は連綿と続く徳の高い君主といった趣旨の慨嘆をしています。日本の史書が明らかにしたことが、いかに日本への敬意に結びついたかを物語っています。

脱線ついでに言えば、聖徳太子の使書にいったんは激怒したシナ皇帝ですが、結局、国際情勢から返礼の使者を送らざるを得ず、その使者が日本は文明国だと褒めちぎっています。また、唐代にも、日本からの使者は身ぎれいなので、さすがは文明国だと感心されています。こうしたことは、教科書できちんと教えてほしいです。

話を戻します。
天武系皇統の御代では、万葉集も編纂されます。天皇の御製も庶民の和歌も同じく載せるという画期的な歌集です。

天武天皇の大御心を忖度すれば、
「せっかく聖徳太子が誇りある日本の対シナ対等の外交を始められたのに、朝貢など恥ずべき行為は絶対ダメ」
ということでしょう。

基本方針は「朝貢NG」であり、その方針の下での「朝貢国倭」ではない「対等国日本」の使者派遣だったと推察できます。

華夷思想を持っていたシナからすれば、対等意識の日本の使者と接して「日本の使者は尊大だ」となったのでしょう。しかし、それは周辺国の使者はへり下るのが当然だと考えていた尊大な彼らの目にそう映っただけのことです。

「朝貢NG」を貫くのが基本方針ですから、「今の日本は倭ではない」がベースです。
倭ならば、シナは華夷思想に基づく固定観念が大好きですから、かつての倭がやってきた朝貢がスタンダードになります。
太子死後に歪められた外交史を繰り返さず、太子の天才的な独創を固定化したかったと考えられます。そして狙いどおりに対等外交が確立します。


ここで問題があります。かつて倭王武は日本列島や半島南部を統治してきたと、その使書に書いています。ならば、倭と違う日本って何なのかを説明する必要が出てきます。

それで、正直に言ったのが「倭はお前らがつけた悪い名だから改めたんだ。対等なのに何勝手に名前つけてんだ?」ということです。そして「日の昇る処だから日本だ。自分の国の名前は自分でつけるのが当然だろ」です。

ちなみに、李氏朝鮮はシナ様に国名をつけてもらっています。今の北朝鮮の国名もシナ様がつけた国名を引きずっています。また、韓国にしても、古代シナが半島南部につけたエリア名をありがたく使っているのです。

いかに、天武天皇が「対等」を徹底して意識しておられたか分かります。

しかし、この説明はシナにはよく分からなかったのでしょう。というか分かっても、皇帝まで報告できなかったのでしょう。
それで次善の策として、壬申の乱を意識しつつ、かつて小国だった日本が倭を併呑したというギリギリのストーリーです。実際、諡は「神武」に対する「天武」ですから、一つの王朝の創始者くらいの気概を持っておられたのでしょう。

要は「倭じゃない」というのが取れれば良かったので、説明はどっちでも良かったんでしょう。

使者と対するシナの役人にしても、たぶんお土産(賄賂)をたくさんもらってたでしょうから、それなりに説明ができれば良かったのでしょう。シナの役人に愛国心など滅多にありません。

こうして、英邁な天武天皇のおかげで、日本はシナに対して対等外交を明確に復活させることに成功します。

そこまでして、尊大なシナとの国交を大切にされたのは「和魂漢才」のためでしょう。当時のシナには先進の文物や思想が溢れかえっていましたから、和魂を第一にしつつも、その文物や思想を日本の興隆に役立てたいという誠を大切にされたのでしょう。
明治維新と何ら変わりません。欧米の文物や思想を取り入れつつも和魂を第一にしようと心がけ、さらに不平等条約を改正しようと粉骨砕身頑張った国づくりと同じです。

見るべき文物や思想もない現代シナと経済的利益のために付き合って、国をつくるどころか壊してきた戦後の旧体制の政治家や文化人、メディア人とは全く発想が違います。

「日本」という国号に込められた大御心はとても尊いと愚考する次第です。また、今の安倍政権の外交方針に通じると思います。(聖徳太子、天武天皇、豊臣秀吉、明治の志士たち、安倍総理、麻生副総理には共通点があると思います。)

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
旧唐書のいう日本は唐の時代にはじめて中国と外交を始めた国であり、倭国は昔から中国と外交をしてきた国です。漢朝の時代には百余国があり、三十ヵ国が中国と外交をしていたとあります。これは隋書タイ国伝までの歴代中国史書の倭国記事と相容れるものであり、日本の記事がそれまで無かった事と矛盾はしていないと思います。隋書までの倭国記事には日本書紀にあるような大和王権の天皇や皇族、有力な豪族の名前は一切ありません。聖徳太子や推古天皇、蘇我馬子らの名前もしかりです。しかし、旧唐書や新唐書からはじめて大和王権の記事が現れます。これは凄く重要な内部だと思います。
unknown
2018/06/08 11:01
記紀でも特殊扱いされている出雲の四方突出墳などの例外はありますが、前方後円墳が全国的に広がったことをどう捉えるでしょうか。
推古天皇などの名前がないとのことですが、聖徳太子は隋の煬帝に使書を送ったことになっています。古代人は呪術的な効力を信じ、名前を大切にしていましたから、素直に名前を教えたでしょうか。古事記、風土記で個々の天皇の呼び方は異なります。
また、太子の対等外交はさておき、朝貢の場合、天皇からの使書の形にしたでしょうか。この点、私はずっと疑問を抱いています。
複数王朝分立説は、なかなかハードルが高いのではないかと思っています。
詰まる所は、記紀の記述にどの程度信を置くかであろうかと思います。戦後は、記紀を虚構とするところから出発する人が多いですが、諸豪族がいる中で無理な話です。また、虚構なら騙し討ちの記述など書かずにもっと美化するでしょう。
素朴に、記紀の記述、シナ史書の記述、考古学の遺物の整合を見るのでいいのではないかと思います。
その視点に立つと、ブログ記事に書いた仮説が成り立つと考えます。この場合、シナ史書には、使者の言うことがよう分からんと書いているわけですから。。
管理人
2018/06/08 20:04
ちなみに、複数王朝分立説の代表は九州王朝説ですが、九州だけで高句麗まで攻めのぼる国力が可能だったとは、私には到底考えられません。
それに、ある王朝が別の王朝を征服したのであれば、後世までシコリが残ると思います。典型的なのは、コリアの地域差別で旧百済の全羅道の人々は、現代でも差別され続けています。
九州と本州の間にそんな軋轢があるとは聞いたことがありません。維新でも尊皇でしたし、南北朝でも南朝の本拠地になりました。
九州王朝があったのなら、「あわよくば」ではないでしょうか。
仮に記紀で記録の書き換えがあって九州王朝を消したとしても、識字率が低い時代にそれが何の意味があったのか謎ですし、九州王朝の伝承は固有名詞とともに人々の深い記憶には残ったはずです。
ただし、青銅器の出土状況から見ても、墳墓の形状から見ても、出雲王朝はあったと思いますが、記紀にも大国主伝承として、かなりの分量を割いて載せています。
つまり、記紀と考古学は整合しています。さらに風土記の記述も整合しています。
また、富氏という出雲の家系にも伝承として残っていますし、さらに神無月に出雲だけが神在月だという伝承にも残っています。
しかし、九州などは出雲とは全く違います。

そもそも複数王朝分立説は、外国と同じように「力づくでこの国の統一が行われた」という戦後の国家形成観〜私はそれは「唯物史観的な歴史の法則が存在する」という単純な思考から来るものだと思いますが〜がベースにあるのだと思いますが、「日本が有史以来、天皇制が継続して受け入れられてきた」という特殊性を説明できないと思います。
力づくで統一した信長、秀吉は一代で終わり、徳川も十五代までです。日本でも「力づく」の継続はその程度の持続性しかありません。鎌倉執権も足利幕府も十五代までです。
管理人
2018/06/08 20:35
私は、天皇制が続いた背景には、歴代天皇が天神地祇の祭祀を大切にしてこられたことが大きいと考えています。
ブログの別記事でも書かせてもらいましたが、地祇祭祀の確立のために、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇は縄文以来の祭祀集団と連携するなど尽力されきたと考えます。

言霊の信じられていた時代です。名前の問題は、この時代の人々の信じていたこと、つまり「名前を人に明かすと呪術に悪用される」という怖れをベースに考える必要があると思います。
このことは、現代人が考える以上に重要だと思います。
管理人
2018/06/08 20:54

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