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zoom RSS 上古史B(「神武東征」以降)

<<   作成日時 : 2017/04/25 00:33   >>

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日本列島の戦略的な拠点を押さえ、そこを足がかりに面的な支配へと拡大していく戦略をとったと考えられます。
拠点とは、
【関東】関東の広大な平野は食糧の大産地であり、反朝廷勢力が形成されないように注意が必要。
◎房総半島から霞ヶ浦一帯(早くも神武天皇の時代に、房総には忌部氏が入植し、霞ヶ浦周辺にはフツヌシ命が入植(鹿島神宮))
◯北関東(10代崇神天皇が皇子を関東の天皇名代として派遣して、大和朝廷の統治を浸透。)

【東海】肥沃な濃尾平野は押さえる必要。
◯伊勢(11代垂仁天皇の時代、倭姫尊が尾張から伊勢にかけて祭祀改革の行脚をされ、伊勢神宮を建立)
◎尾張(早くから物部氏が入植。また、11代垂仁天皇の時代、半島倭人アメノヒボコが入植)
◯美濃(12代景行天皇の時代、美濃に都を起き、地元豪族と婚姻関係を濃くする)

【日本海航路】出雲と列島各地が結びつかないようにする。日本海→若狭湾→琵琶湖→淀川の航路が戦略的に重要。
◎丹波(天皇家が婚姻関係を結んでいく)
◎丹後半島(天火明系の海部氏が入植。11代垂仁天皇の時代、半島倭人アメノヒボコが入植)
◯若狭湾(10代崇神天皇の時代、半島倭人ツヌガアラシトが入植)
◯近江(11代垂仁天皇の時代、湖東に半島倭人アメノヒボコが入植)
◎淀川(神武天皇の時代、淀川豪族の三嶋氏と婚姻)
ただ、北陸地方にはなぜか入れず、苦心していたようです。10代崇神天皇の時代に四道将軍の一を北陸に派兵。

【瀬戸内海】瀬戸内海航路は物流の大動脈。
吉備は揺らいでいたので、10代崇神天皇の時代に四道将軍の一を派兵。

【九州】半島を睨んで押さえる必要。
出身地ゆえに油断して手薄ににってしまい、景行天皇や仲哀天皇が苦労される。


既に神武天皇の時代に、関東を押さえるという戦略的な配置をしていたのは見事です。神武天皇は、遠く関東の情報まで持っていたということです。
しかも、このフツヌシ命というのは、「国譲り」神話で、最後の談判者として武力を背景に大国主命に「国譲り」を迫る忠誠心ある神です。その子孫を関東に配置したということは、それだけ関東を戦略的に重視しているということです。

また、崇神天皇が北関東をマルッとまとめて息子に統治させるというのは興味深いです。
その二代後の景行天皇の時代、ヤマトタケル尊の遠征でも北関東は目立った抵抗はしていませんから、崇神天皇のやり方は成功したのでしょう。
北関東には巨大な前方後円墳が多く、古代史マニアは関東王国などと勝手な妄想を抱いていますが、前方後円墳は大和朝廷の墓制に倣っているのですから、北関東にあったのは独立勢力ではなく、大和朝廷の傘下です。ヤマトタケル尊の時代よりも二百年程時代が下った雄略天皇の時代にも、稲荷山鉄剣に、天下を治めるのを助けてくれたという趣旨のことが書いてあります。

ここから脱線です。
上記に、時折出現するアメノヒボコやツヌガアラシトなどの半島出身者をコリアンと誤解している歴史家が多いですが、彼らは頭が悪いとしか言いようがありません。
古来、新羅や加羅には倭人が居住しており、これら日本語で理解できる氏族は倭人と考えるのが自然です。(記紀ではコリアン系渡来人には、例えばミシキンとか訳のわからない発音そのままを書いています。)

(注)コリアの歴史書「三国史記」には、新羅の三王家のうち昔氏は倭から来たとしていますし、上古新羅の宰相瓢公は倭人だとされています。また、「境を接する」倭と何度も戦争をした旨書かれており、半島に倭人国家があったことは明白です。


特にアメノヒボコは、倭人の中でも「アメ(天)」を冠する一族で、天皇家の遠縁の親戚だったと考えられます。それゆえ、安心して天孫族に近い扱いをして各地に入植させたのでしょう。

この名前は少し気になります。結論から言えば、「アメノヒボコ」は、天孫系と考えられる名前です。
というのは、ニニギ尊の三子はアメノホアカリ、アメノホスセリ、アメノホオリであり、「アメノホ◯◯」という名前です。「ホ」は漢字では「火」と書かれており、「ヒボコ」の「ヒ」に通じます。他にも「国譲り」神話の「アメノホヒ」も同系の名前です。「アメノヒボコ」は、これらに列する相当格の高い天孫系だと考えられます。

何が言いたいかと言うと、天孫系は九州から半島に広がっており、「アメノヒボコ」は、その天孫系の一氏族だと考えるのが妥当だろうということです。(詳しくは分からないので、天孫族ではなく、天孫系としておきます。)

実際、弥生時代に「甕棺墓」という独特の墓制が対馬海峡の対岸である北部九州と洛東江下流域で広がっており、甕棺墓からは「三種の神器」と同じ銅剣、銅鏡、勾玉が副葬品として出土しますから、これらが天孫族になったと考えるのが自然だろうということです。

(注)さらに脱線すれば、金海(甕棺墓制)の王族の后は遥々インドから来たという伝承がある一方、日本と酷似した甕棺墓制は世界で唯一南インドのタミル人の水田稲作遺跡から出土しますから、天孫族はタミル地方と何らかの関係があるようです。

つまり、11代垂仁天皇の時代(卑弥呼の時代)には、丹波や尾張、近江には、天孫族アメノヒボコが入植して大和朝廷を助けたのでした。


神武天皇や崇神天皇、垂仁天皇の戦略的な入植の成果もあり、ヤマトタケル尊の時代には、大和朝廷は日本列島のかなりの部分を面的に統括支配できたようです。


最終的に統治が難しい地として残るのは、
◯北陸地方(越)〜信州
◯九州地方
です。

北陸地方〜信州は、大八洲観(日本列島は世界の縮図)を踏まえた地政学で言えばハートランドです。それを抜きにしても、越は出雲との関係が深く、雪深さのゆえにか地域の独立性も高く、大和朝廷からの関与がなかなかできないエリアでした。
大和朝廷としては、先に関東平野、濃尾平野、瀬戸内海、若狭湾までの日本海航路を押さえるのが優先順位が高く、若狭湾までの日本海を押さえてしまえば、北陸地方は時間の問題という読みもあったと思います。

もう一つの九州地方は盲点というか油断でした。大和朝廷は九州出身なだけに、九州統治にはあまり力を割かなかったと考えられます。
しかし、ヤマトタケル尊の少し前、卑弥呼に最後まで抵抗していたのは狗奴(熊本)のククチヒク(菊池彦)です。
また、ヤマトタケル尊の後の仲哀天皇の時代、新羅の工作で九州が乱れます。半島に近いだけあって、ケアしないと半島からの工作を受けやすい地政学的な位置にある点、留意が必要だったのでしょう。


この次の神功皇后、応神天皇から始まる百年程度は九州統治も兼ねてコリア半島への積極介入を行います。
そして、大和朝廷は洛東江の鉄資源を掌握するのですが、大和朝廷に親しい国内豪族には優先的な鉄資源を配分するといったような方策がとられたと考えられ、日本列島の親大和勢力が豊かになり、大和と疎遠な勢力は衰退していかざるを得なくなっていったと考えられます。

ただ、応神家系の天皇の御代は、半島の「力」を信奉する統治思想が幅を利かして、世が乱れていったという面を見逃してはならないと思います。
なお、応神天皇の出現の立役者は、天孫族アメノヒボコの子孫・神功皇后と、九州倭人で鉄資源に聡い竹内宿禰系の諸豪族です

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