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zoom RSS コリア半島の地政学的位置A

<<   作成日時 : 2017/02/13 22:42   >>

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先の記事で、コリア半島の周辺大国として、以下の諸国を挙げました。

上古 →高句麗 倭
古代 →唐 渤海 日本
中世 →モンゴル 日本
中世〜近世 →明 日本
近代 →清 ロシア 日本
現代 →チャイナ ロシア アメリカ 日本

東アジアに超大国・隋唐が出現して以降のことは、石平氏の「韓民族こそ歴史の加害者である」が秀逸ですので、それに譲り、コリアンの原型が形成されたと考えられる上古と古代について触れたいと思います。

@上古
まず上古ですが、上古については学校では「古墳時代」と一括りで学ぶだけです。

しかしながら、我が国では古事記、日本書紀、チャイナでは歴代王朝の正史があり、また半島では広開土王碑や三国史記があります。さらにY染色体の構成や半島南部での前方後円墳の発見などもあります。
これらを照らし合わせると、相当程度この時代の半島史が浮かび上がってきます。

新羅と百済は小国であり、高句麗と倭に挟まれていました。

高句麗は、北ユーラシアの東端である南満洲の扶余に発する国家であり、新羅や百済とは民族構成が一部違います。
この高句麗の南下によって、南コリア(韓)の新羅・百済といった小国は滅亡の危機に瀕していました。

一方、倭は鉄器時代の開墾・発展期で、旺盛な鉄器需要を抱えており、半島南部の洛東江流域(=ほぼ加羅地方)の産鉄地は戦略的に重要な地域でした。

そういう事情を見透かしたのか、新羅や百済は倭に援軍を求め、倭軍は高句麗の南下を妨げ、北方に押し返しました。こうした時代が紀元5世紀の約100年間続きます。
チャイナの史書に記される「倭の五王」の時代、記紀の神功皇后や応神天皇の子孫の御代(応神朝)のことです。また、広開土王碑の時代です。チャイナの史書では、倭王は、新羅や加羅、百済を指す地域の軍事権を認められていました。
これらのいずれもが、倭軍がコリア半島で活躍していたことを指し示しています。

(注)チャイナ王朝からは、当然、新羅や百済にも、それぞれ新羅又は百済の軍事権が認められていました。つまり、新羅や百済という国家があるにも関わらず、倭王に新羅や百済における軍事権を認めていたのです。チャイナ王朝によるこの不可解な重複認定は、この時代、倭軍を新羅や百済の救援軍として認知するのが常識だったことを示しています。なお、倭王は新羅や百済の国王より一格下になっていますが、実際は将軍が現地に赴いたのと、倭王を新羅・百済より格上にするとチャイナ王朝の面子がないので、苦肉の策としてそうしたのでしょう。ここで重要なのは、新羅・百済の領土における軍事権を認められていたことです。


つまり、新羅や百済は、大国・高句麗の南下を大国・倭に防いでもらい、国家滅亡を免れるという利益を得ていたわけです。

これが、新羅、百済の原体験です。

「原体験」は重要であり、その後もコリア半島の国家は、大国のバランスを見極めて、一方の大国の力を利用するというのが、政治指導者に求められる基本的力腕になります。

北ユーラシア勢力と日本列島に挟まれる中、日本列島の国家に支援してもらったというのが、上古の南コリアです。


A古代
古代はどうだったでしょうか。
倭のおかげで命脈を繋ぎ止めた新羅と百済は、北の大国・高句麗とともに、コリア半島の三国時代を演出します。

このうち、百済は倭に近づきます。その際に倭には人質だけでなく、五経博士や仏教といったチャイナ文明を伝えることで報いました(ただし、コリア仏教はカルトの域を出ません。)。
その代わりに、倭からは軍事支援や領土割譲などの支援をしてもらいます。この頃(継体天皇の御代以降)、倭は内乱を経て、かつ中国地方に鉄資源が発見されたので、半島南部からの撤退ムードが出ており、半島南部の領土はお荷物になっていました。

新羅は、やはり倭に人質を送りつつ、倭に近づいたり、裏切ったりを繰り返しています。近づく時は、倭に軍事支援を求めていた時ですし、裏切る時は高句麗に軍事支援を求めていた時です。

この新羅がコリアを統一して、その後のコリア王朝の原型を作るのですから、この6世紀に、信用できないコウモリ国家コリアの原型が形成されたと考えるべきでしょう。

この時代の基本構図は「上古」と同じで、北の大国・高句麗と南の大国・倭に挟まれた中での出来事です。

先述のとおり、倭は半島へのコミットをコストと考えるようになってきたため、新羅の国家経営も揺れました。また、倭に頼る百済との戦争遂行のために、倭と距離を保つことが必要だった筈です。倭か高句麗かの国家経営の揺れの背景には、そうした事情があったのではないかと思われます。

そして、倭の半島撤退のムードが高まるや、新羅は加羅地方を強奪しました。その頃から、新羅の隆盛が始まります。

新羅は領土を強奪したばかりではなく、精強な倭兵も手に入れたと考えられます。

(注)加羅の中心国家・金官加羅国は北九州と共通文化圏(古くは甕棺墓文化)に属す倭人ですし、多くの倭兵がいたと考えられますが、この金官加羅の王族・金庾信が新羅の将軍として迎えられますから、その配下には大勢の倭兵がいたはずです。今でも南コリアには金海金氏(金海=金官加羅を本貫とする金氏)が大勢いますが、彼らは倭人の末裔でしょう。

半島南部から倭の組織的な精強軍が撤退し、残った倭兵を獲得した上に洛東江の産鉄地を得たのですから、新羅が興隆するのは当然です。

興隆する新羅は半島統一の野望を抱くようになります。そして、次に目をつけたのは唐です。
新羅にとっては高句麗を滅ぼすことが重要であり、高句麗を滅ぼす動機と実力を持つのは唐を置いて他にありませんでした。

この当時の百済も新羅も、大国に頼るのが慣れているというか、大国に頼ることから国家経営の発想を始めるようになっています。
新羅は、ついに東アジアの超大国・唐(鮮卑人の征服王朝)の籠絡に取り掛かりますが、何度も無視されたり、反故にされます。このへんのしつこさも、現代コリアンの原型です。

チャイナには周辺国を服属させてこそ「天子」として「正統性」が認められるという中華思想が根付いており、実際、隋は高句麗に大敗したために「正統性」が認められずに一気に滅亡へと突き進んだのでした。このため、唐もついに重い腰を上げて、まずは百済攻撃を始めます。


百済は、半島熱が冷めてきた倭に依存し続け、百済支援派の蘇我氏(竹内宿禰の子孫)が政変で滅ぶや、今度は中大兄皇子(天智天皇)に取り憑いて百済支援を引き出します。この時には百済はいったん滅んだ後でした。
おそらく、この時の百済の殺し文句は、
「百済を復興させないと、新羅と同盟する超大国・唐の勢力が対馬海峡の対岸まで南下してくる」
だったでしょう。

この時の倭は、半島撤退から100年近くも比較的平和な時代が続いていましたから、昔の精強軍(その多くは九州の武人豪族)の面影はなく、白村江の戦いで唐(戦闘慣れした鮮卑人や靺鞨人の兵隊)に大敗を喫してしまいます。

大国に依存するということは、選ぶ大国を誤ると、その先には滅亡が待っているということです。それゆえ、コリアンはどの大国を選ぶかを強烈に意識するようになります。

(注)この後、近代まで日本は(秀吉の時代を除き)半島に関心を持っていませんでしたから、コリアンは基本的にチャイナ情勢を注視していればよいという時代が続きます。しかし、近代になるとチャイナ以外に日本とロシア、現代になると更にアメリカのいずれの属国になるかは最大の関心だったことでしょう。

その後、唐・新羅の連合軍は高句麗を滅亡させます。そして統一後はなんだかんだ言って、唐の直接支配を避けて属国になります。唐も周辺国を服属させて「天子」と認められる「正統性」を得ることが最重要なことですから、コリア半島の経営は属国に委ねた方が得策だったでしょう。

新羅は、超大国・唐の支援で「統一」という果実を得たのでした。

これ以降、南の倭は半島介入をせず、一方の唐は中華思想でギラギラしているという状況です。つまり、新羅が気にしなければならない大国は唐のみという状況です。
こういう状況下では、コリア国家は迷わず属国の道を選択します。それが征服されずに済む唯一の選択肢だという認識が恐怖感とともに浸透しています。

パククネ政権の前半は、チャイナの属国への道をハメルーンの笛吹き男に導かれるかのように邁進しましたが、上下問わず、強大化するチャイナへの恐怖感と遺伝子に組み込まれたかのような属国根性が頭をもたげたのでしょう。
しかし、チャイナの経済が停滞し、崩壊の危機もあるとなると、(アメリカからの脅迫もあったのでしょうが)今度は完全に手の平を返してアメリカ様となります。

だから、衰退しているとは言え、経済力も軍事力もあるチャイナからTHAAD配備絡みで脅されているのは、上下を問わず、本当に内心ビクビクものだろうと推察します。

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